第5話 隣領からの善意
——三年前。
署名欄が空いていた。
ヴァイデン商会の帳場に足を踏み入れると、父の机がまず目に入った。帳簿が一冊、開いたまま載っている。月末の締めの頁だった。日付は番頭の字で埋まっている。その下——商会長が名を入れる一行——だけが白い。
父が亡くなって十日になる。
帳場は変わらない匂いがした。紙とインクと、河から上がってくる木の匂い。三年前の夏、父がこの机で婚姻契約書を起こしていたときと同じ匂いだった。壁ひとつ隔てた書斎の扉は閉まったままだ。
机の上を数えた。仕入れの伝票が十一枚。荷揚げ記録が七枚。取引先への書簡の下書きが三通。河港の関税の控えが二枚。どの紙にも父の字があった。角の立った楷書だ。帳場の仕入れ契約にも、娘の婚姻契約書にも、同じ字を書いた人だった。
新しい字はなかった。帳簿の最後の数字は先月の二十七日で止まっている。二十八日から先の行は白い。日付のない罫線が、頁の下まで続いていた。
椅子は空いていた。背もたれがわずかに後ろへ傾いている。帳簿に向かって前かがみになる人が何十年も座った跡だった。座面に窪みがある。胸ポケットに鉛筆を差す癖のある人の、椅子だった。
(お父様の形だけが残っている)
番頭が帳場の奥から出てきた。
「お嬢様——いえ、奥様。ようこそお越しくださいました」
「番頭さん。帳場のほうは」
「滞りなくお預かりしております」
番頭が居住まいを正した。
「日々の出入りは変わりありませんか」
「荷の受け入れも出荷も平常通りでございます」
「帳簿を見せてください」
「先月ぶんと、本月の途中まででございます」
受け取った帳簿を開いた。数字は揃っている。日付も品名も金額も抜けがない。仕入れ先ごとの小計も合っている。番頭は帳簿を締められる。けれど署名はできない。署名は商会長の仕事だ。帳簿の最後の頁に空欄はその一行だけだった。
「小計は合っています」
「恐れ入ります」
「月末の在庫は」
「倉庫に十二口。明日の積み出しを除いて十口でございます」
「明日の積み出し先は」
「河向こうの材木商でございます」
番頭が帳簿の別の頁を開いた。
「仕入れの支払いは」
「一件も滞っておりません」
「掛けの回収は」
「月末までに三件。金額はこちらに」
(番頭さんの帳簿は、お父様と同じくらい正確だ)
正確であればあるほど、署名欄の空白が際立つ。数字が全部揃っているのに、一番最後の一行だけが空いている。
「返書が三通、署名待ちで止まっております」
「いつからですか」
「旦那様がお亡くなりになった日からでございます」
十日ぶん、届け先を待たせている。
「返書の宛先は」
「材木商と関税の出張所とローゼン商会の三件でございます」
「急ぐものは」
「関税の控えだけは、月内に届け出が要ります」
「届け出の期限は」
「二十五日でございます」
「番頭さん。商会はあなたにお任せします」
番頭の手が止まった。
「署名の委任状を書きます」
「商会の判もお預けくださいますか」
「帳場の引き出しにあります」
番頭がうなずいた。
「帳場の者には」
「私からお伝えいたします」
「奥様はお戻りになりませんか」
「わたしには嫁ぎ先がありますから」
帳場の外で荷車が石畳を鳴らした。三年前の夏にもこの音がしていた。父が婚姻契約書を起こしていたあの日と同じ音だ。あの日はこの音の中で、十二の条文が紙の上に並んでいった。
委任状を書いた。父の机にある鉛筆には触れず、懐から自分のペンを出して書いた。商会長の署名権を番頭に委ねる旨を一筆。日付と自分の名前を記した。父の名前はもう書けない。
番頭は委任状を受け取ると、両手で折り目をつけて胸にしまった。
「大切にお預かりいたします」
「よろしくお願いします」
「月末の帳簿は、いかがいたしましょう」
「番頭さんの名で閉じてください」
番頭が帳簿を閉じた。
「商会の出入りの控えを四半期ごとに届けてください」
「届け先はお屋敷の帳簿部屋でよろしゅうございますか」
「お願いします」
帳場を出るとき、書斎の扉の前で足が止まった。扉の隙間から紙の匂いがかすかに漏れていた。あの匂いの向こうに、鉛筆の入っていた胸ポケットの形に擦れた上着がある。椅子にかかったままだろう。窪みの残った椅子と、最後の鉛筆と、途中で止まった帳簿と。全部がそのまま残っている。
開けなかった。開ければ数えてしまう。父が残したものを一つずつ数えて、そのぶんだけ、もういないことがはっきりしてしまう。
伯爵邸に戻ると、帳簿部屋にベルントがいた。
「おかえりなさいませ、奥様」
「ただいま戻りました。商会は番頭に任せてきました」
「さようでございますか」
「帳場の帳簿には欠けがありませんでした」
ベルントがペンを置いた。
「番頭殿は確かなお方でございますから」
「委任状を書いてきました。署名と判を預けてあります」
「承知いたしました」
自分の机に着いた。袖口を折り、帳簿を開く。父の商会の帳場から、嫁ぎ先の帳簿に戻る。机の上には処理の待つ伝票が重なっていた。数字は待ってくれない。喪が明けても明けなくても、月末は来る。月末の帳簿は締まるまで白い。白い帳簿を見ると、商会の署名欄を思い出す。
「旦那様からのお申し付けは」
「特にございませんでした」
伝票の束を手元に引き寄せた。
「ベルントさん。留守のあいだに届いたものは」
「離れの家具の伝票が一通と、ローゼン商会から利子の受領確認が参っております」
「利子のほうは」
「隣領からの善意で、今年も利子は払われております」
ベルントの声は事務的だった。帳簿の注釈欄に毎年書かれる一行と同じ調子で、それだけを伝えた。
「隣領の、どなたが」
「存じ上げません。善意としか」
「いつから払われているのですか」
ベルントが帳簿の注釈を指した。
「嫁がれた年から届いております」
「金額は」
「昨年と同額でございます」
「受領の控えはありますか」
「帳簿の注釈に年ごとの記録がございます」
それ以上は訊かなかった。
(隣領の誰かが、毎年この家の利子を払っている)
「離れの伝票は」
「家具でございます。寝台の飾り板の張替え。百二十グルデン」
「帳簿に載せてください」
「畏まりました」
ベルントが帳簿に目を落とした。
「本月の仮締めは、いつになさいますか」
「月末に。いつも通りで」
「弔問への返礼の一覧もこちらに整えてございます」
「確認します」
昼すぎに、廊下で夫とすれ違った。喪服のまま帳簿を書いていたので、袖にインクの匂いがついていた。夫は気づかなかっただろう。
「おや。戻ったのか」
「はい。ただいま戻りました」
「商会のほうは片づいたか」
「番頭にすべて任せてまいりました」
「それがいい。番頭に任せておけばいい」
夫は廊下の窓に目を向けた。
「荷物はどうした」
「そのままにしてあります」
「弔いの返礼もベルントに渡してある」
「何件ですか」
「さあ。二十は来ていたか」
夫は穏やかに言った。
「君は家のことをしてくれ」
「はい」
それだけだった。
父が亡くなった日、この人は「それは気の毒だ」と言った。それだけだった。弔いの使いも商会へ行く手配も、すべてベルントが整えた。夫は使いを出した翌日にはもう別の話をしていた。
悪意ではない。持参金と一緒にやってきた商家の父親は、この人の目には映らないものだった。映らないものが消えても、景色は変わらない。
(お父様が書いた契約書を、この人は読んでいない。署名すら別の人に任せた。けれど持参金はこの家の金庫に入って、帳簿を回している)
「帳簿部屋にいます」
「ああ」
すれ違った。夫の背中が廊下の向こうに消えていった。今日も手には何も持っていなかった。
帳簿部屋へ戻る廊下で、花の香がした。離れのほうから来る甘い匂いだ。
「あら、奥様。お帰りなさいませ」
マリカが廊下に立っていた。淡い金の髪を下ろして、季節の新しいドレスを着ている。花束を抱えた使用人が後ろに控えていた。
「お父様のこと、お気の毒でしたわ」
「ありがとうございます、マリカ様」
「わたし、お父様にはお会いしたことがなくて。ご立派な方でいらっしゃったのでしょうね」
「帳簿の読み方を教わりました」
「まあ。やっぱり帳簿のお家ですものね」
会ったことのない人を「ご立派」と呼ぶのは容易だった。マリカの目が花束に移った。離れの部屋に飾る花だ。その代金はリーゼルの帳簿に載る。
「この花、離れに飾るの。素敵でしょう」
「ええ」
マリカの目がリーゼルの袖口に止まった。インクの跡が残っている。
「商会にいらしてたんですって? 帳簿のお片づけですか」
「はい」
「大変でしたでしょう。お疲れではなくて?」
「奥様は数字がお好きですものね」
マリカは微笑んだ。甘い、慇懃な笑みだった。
「わたしは人が好きなの」
リーゼルは何も言わなかった。言葉は浮かばなかった。浮かんだのは数字だった。離れの先月の支出、花代の伝票、寝台の飾り板の百二十グルデン。数字が好きだと言われた人間の頭には、数字しか浮かばない。
何も言わないまま、小さく会釈をして帳簿部屋の扉に手をかけた。扉を閉めた。ベルントのペンの音が聞こえた。こちらを見なかった。見ないことが、この人の礼儀だった。
机に着き、帳簿を開いた。離れの家具の伝票を手に取った。
寝台の飾り板の張替え。百二十グルデン。
帳簿に書いた。『離れ 寝台飾り板張替え代 百二十グルデン』。リーゼルの字で、日付を添えて。
(人が好きだと言った人の寝台の飾り板を、数字が好きな人間が帳簿に載せている)
ペンを置いた。インクが乾くのを待った。帳簿の行に数字が並んでいる。父の帳場の帳簿と同じ並び方だ。品名、数量、金額。父に教わったとおりに。
夕方、帳簿を閉じた。
「ベルントさん。金庫を開けます」
「鍵でございますか」
「お願いします」
ベルントが鍵束から一本を外した。
「帳簿の出し入れでございますか」
「契約書を確かめます」
月半ばに金庫を開けることは滅多にない。けれど今日は開けた。
鉄の扉を引くと、紙の匂いがした。金庫には三年ぶんの帳簿が積まれている。月ごとに締めて年ごとに綴じた冊子が、底まで詰まっていた。
一番上にあるべきものを探した。
婚姻契約書の写しだ。
帳簿の冊子が二つ、その上に載っていた。先月と先々月の帳簿を出し入れしたときに重ねてしまったのだろう。月末に急いで帳簿を取り出すとき、無意識に上に重ねた。三年ぶんの月末を繰り返すうちに、一番上にあるべきものが少しずつ沈んでいった。
冊子をどけ、契約書の束を取り出した。
表紙に父の字があった。
『ファルケ伯爵家・ヴァイデン男爵家 婚姻契約書 写』
角の立った楷書。帳場の仕入れ契約にも、この表紙にも、同じ字を書いた人だった。同じ字を書く人は、もうどこにもいない。
最後の頁を開いた。署名欄に二つの名前が並んでいる。リーゼル・ヴァイデン。ユリアン・ファルケ。名前の横に小さな『代』。
その先の余白に、父の字がある。署名の日に書き込んだものだ。小さな、角ばった字。
読まなかった。今日は読まない。父の字がそこにあることだけを確かめた。
(お父様。商会の署名欄は番頭さんに渡しました)
(でもこれは渡しません)
帳簿の冊子を一つずつ金庫に戻した。三年ぶんの帳簿を下から順に積み直す。どの冊子にもリーゼルの字がある。父の字で覚えた帳簿の締め方で、三年ぶんの月末を書いた。
全部戻してから、一番上に契約書の束を置いた。
今度は帳簿の下に沈まないように。金庫を開けるたびに、まず指が触れる場所に。父が「一番上だ」と言った場所に、戻した。
鉄の扉を閉めた。鍵を回す音が帳簿部屋に響いた。
金庫のなかで、父の字が一番上にあった。




