第4話 欄干の印
——五年前、春。
修繕費の欄が空いていた。
帳簿を開くと空欄が先に目に入るのは、嫁いで半年で覚えたことだった。書かれた数字より先に、書かれていない場所が見える。ファルケ伯爵領の帳簿には空欄が多い。数字が入るべき場所に数字がない。空欄の数だけ、誰かがやるべきことをやらなかった。
けれどこの空白は別だった。
橋の修繕。項目名だけが行の左端に残っている。金額の欄は三年ぶん、白紙だった。先代伯爵が亡くなってから、一度も数字が入っていない。
「ベルントさん」
「はい」
「橋の修繕費ですが。三年、空いています」
隣の机でペンの音が止まった。
「はい。修繕の指示が出ておりませんので」
「最後に修繕したのはいつですか」
「先代がお亡くなりになる前の年でございます」
帳簿の空欄に目を落とした。通行税の行には毎月の数字が並んでいる。その下の修繕費の行だけが白い。
「収入の六割を生む橋の修繕が、三年止まっているわけですね」
ベルントのペンは動かなかった。
「……さようでございます」
「通行税は昨年でいくらですか」
「六百八十グルデンでございます」
「石工の親方がいると聞きました」
「ハンスと申します。先代の橋の工事のときから、ずっとあの橋を見ている者でございます」
ベルントはインク壺を机の端に寄せた。
「今も橋に」
「時折、様子を見に行っていると聞いております」
リーゼルは帳簿を閉じた。
「橋を見に行きます」
「お供いたしましょうか」
リーゼルは立ち上がった。
「一人で参ります」
河港の石橋は、帳簿部屋の窓から欄干の先だけが見える。歩くとしばらくあった。河港に近づくにつれて、荷を積んだ馬車とすれ違う回数が増えた。橋を渡る荷の半分は北の関所を先に通る。伯爵領の収入の六割は、この橋の通行税だ。
近づくと、帳簿の空白が石の形をしていた。
欄干が二箇所欠けている。欠けた縁が風雨で丸くなっている。一年や二年ではこうならない。橋面の石畳には隙間ができて雑草が根を張り、水際の護岸は崩れかけて春の雪解け水が石の合わせ目に染みていた。
荷馬車が一台、橋の上を渡っていった。御者は欄干の欠けた箇所を避けて中央寄りを通った。慣れた避け方だった。毎日こうして避けているのだろう。
(帳簿の空欄と同じだわ。三年放っておくと、避けて通るのが当たり前になる)
橋の北詰に人影があった。白い髪の男が護岸の石を手で触っている。石粉で白くなった前掛け。がっしりした体。背中が広い。石を触る手つきは職人のそれだった。
「失礼いたします」
男が振り向いた。小さな目がこちらを見た。
「誰だ」
「ファルケ伯爵家のリーゼルと申します」
「奥様か」
目の奥に何かが動いた。すぐに消えた。
「一人で来たのか」
「はい」
「ハンス親方ですか」
「そうだ」
立ち上がったとき、左手が目に入った。小指と薬指が第一関節から先がなかった。
(先代の工事だ)
帳簿の記録を覚えている。七年前、先代が契約を読まずに署名した橋の再建。工費が契約の三倍に膨らんだ。ベルントの字で、金額のあとに二重線と訂正が三箇所入っている。あの工事で指を失った人がここにいる。
「橋の様子を見に参りました」
「見ての通りだ」
「直せますか」
「石は直せる。金と人がいればな」
ハンスは橋のほうを顎で示した。
「護岸は去年の冬にやられた。水が入って中が膨れている。このまま夏を越したら崩れる」
「崩れたらどうなりますか」
「橋脚が傾く。荷馬車が通れなくなる」
「このまま何もしなければ」
「二年もたない」
リーゼルは欄干に目を移した。
「欄干も」
「二箇所。石が割れて落ちた」
「いつからですか」
「欄干は一昨年だ」
ハンスは橋面を指した。石畳の隙間に雑草が揺れている。
「目地が全部抜けている。馬車が通るたびに広がる」
「欄干が先だ。落ちた石はまだ河原にある。割れていなければ据え直せる」
「直すにはいくら要りますか」
ハンスの手が止まった。
「……金の話か」
「はい」
「百二十グルデンもあれば護岸と欄干は直せる。石畳は来年でいい」
ハンスは腕を組んだ。
「工期は」
「職人四人でひと月だ」
「始められるのはいつですか」
「雪解けが済めば来月にも入れる」
百二十グルデン。職人の月給六人ぶんだ。持参金の帳簿の中で、それは大きな数字ではない。けれどこの数字を、三年間、誰も書かなかった。
「出します」
「伯爵様が」
「いいえ。わたしの持参金から出します」
ハンスが黙った。左手の短い指が前掛けの端を握った。
「持参金を橋に使うのか」
「はい」
「帳簿をお見せしますか」
リーゼルは懐から持参金出納帳を取り出した。橋に来る前に金庫から持ち出していた。
「これがわたしの持参金の出納帳です。伯爵家の金庫には修繕に回す余裕がありません」
ハンスは帳簿を受け取った。ページをめくる手つきが危なっかしかった。数字の行に目を落とし、ゆっくりと指でなぞっている。読めているかは分からなかった。ただ、左手の三本の指で帳簿の端を支えるその手は、石に触るときとは別の力の入れ方をしていた。
「……出せるのか」
「出せます」
「……そうか」
帳簿を返した。
「じゃあ、やる」
礼は言わなかった。護岸のほうへ歩き出して、二歩で振り返った。
「橋は渡る人のもんだ。誰の金で直しても」
それだけ言って、崩れかけた護岸の前にしゃがんだ。石に触れた左手の三本の指が、今度は確かな力で石を叩いた。
帳簿部屋に戻ると、ベルントが同じ姿勢で机に向かっていた。外に出ていたのは一刻ほどだったが、帳簿部屋の空気は出る前と同じだった。変わったのは自分のほうだ。
「ベルントさん。橋の修繕費を出します」
「金額は」
「百二十グルデン。持参金から」
ペンの音が一瞬止まった。止まって、すぐに戻った。
「……畏まりました」
「親方への書付は」
「わたしが書きます」
「工期はひと月です」
「承知いたしました」
修繕費の欄にペンを置いた。三年ぶんの空白のすぐ下の行に。
橋の修繕。百二十グルデン。日付。リーゼルの字で。
空欄が一つ、埋まった。
翌年の春も、ハンスは来た。
帳簿部屋の前の廊下に立っていた。石粉のついた前掛けのまま、椅子には座らなかった。ベルントの机の横の椅子を勧めたが、「立つ」とだけ言った。
「お茶をお持ちしましょうか」
「いらない」
「奥様。今年の修繕、百五十だ。石の値が上がった」
「分かりました。出します」
ハンスは帽子の縁を指で直した。
「石畳をやる。去年の護岸は持っている。欄干も持っている」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。橋の報告だ」
「去年の仕上がりを見ました。護岸、しっかり入っていました」
ハンスは顎を引いた。
「当たり前だ」
「石はどちらから持ってきますか」
「北岸の切り出し場だ。あの層の石は百年持つ。橋にはそれしか使わない」
ハンスは前掛けの石粉を払った。
「何人で作業されますか」
「六人。石畳は手間がかかる」
「工期は」
「ふた月はかかる」
その年の秋に橋を見に行った。石畳の隙間が埋まっていた。雑草が生えていた場所に、白い目地が入っている。御者はまだ中央寄りを通っていた。癖は石畳より長く残る。
帳簿に書いた。橋の修繕。百五十グルデン。
三年前の春。父が亡くなった冬の、数ヶ月後だった。
ハンスは廊下で帽子を脱いでいた。初めて見る仕草だった。
「奥様。今年は百八十だ」
「はい」
「北岸の切り出し場が枯れてきている。遠くから運ぶぶん高い」
「どこの石ですか」
「南の山だ。半日余計にかかる」
リーゼルは帳簿を開いた。三年目の修繕費を書き込む欄はもう迷わずに見つかる。
「分かりました」
「今年は何を直しますか」
「橋脚の根元だ。水に浸かっている。今年はここをやる」
「工期は」
「水の中の仕事だ。三月はかかる」
リーゼルは帳簿に金額を書き入れた。
「……伯爵様はご存じなのか」
「何をですか」
「修繕費を奥様が出していることを」
「いいえ」
ハンスの左手が前掛けの端を握った。
「ずっとか」
「最初の年から」
ハンスは何も言わなかった。帽子をかぶり直して帰った。廊下を歩く靴の音が重かった。石を踏んで歩く人間の足音だった。
二年前の春。
ハンスが紙を持ってきた。修繕の見積もりを書いた紙だった。
「二百グルデンだ。内訳を書いた」
石の種類と量と職人の日数が、ぎこちない字で並んでいた。左手で書いたのだと分かった。帳簿の書き方に似ていた。品名のあとに数量を置き、最後に金額を書く。リーゼルが帳簿に書いているのと同じ並び方だった。
「ありがとうございます」
「写さなくていい。奥様に渡すために書いた」
(この人は帳簿を見たのだ。わたしが何を書いているか、覚えたのだ。字を書く習慣のない人が、左手で、数字の並べ方だけ覚えて持ってきた)
「今年も出します」
「じゃあ、やる」
戸口で振り返った。
「奥様。欄干も今年で全部入れ替わる」
「はい」
「全部で何本ですか」
「十二本。最後の二本が今年だ」
「そしたら、あとは石が持つ」
リーゼルは頷いた。
「五年目以降は」
「石に聞く。割れたら呼んでくれ」
去年の修繕が終わった晩秋に、橋に寄った。帳簿の締めを終えた帰りだった。
四年ぶんの修繕で橋は変わっていた。欄干の石は揃い、石畳の隙間は埋まり、護岸はまっすぐ立っている。最初の年に崩れかけていた護岸は跡が分からないほど馴染んでいた。荷馬車の御者が欄干を避けずにまっすぐ渡っていくのが見えた。二年前はまだ中央を通っていた御者が、今は欄干の脇を通っている。
欄干に手を置いた。石が冷たかった。川面に夕日が反射して、欄干の石を橙色に染めている。
指先に、かすかな凹凸が触れた。
欄干の内側——手を置く高さから少し下——に、小さな印が彫られていた。親指の爪ほどの大きさ。鑿で刻まれた石工の印。
ハンスの印だった。
石工が自分の仕事に刻む個人の印だ。師匠から弟子へ受け継ぐもので、その石に自分の手を入れた証だと、父の商会の石材の取引で聞いたことがある。
いつ彫ったのだろう。去年か、一昨年か。最初の年に彫って、三年、気づかなかったのか。
指でなぞった。石は冷たかった。けれど鑿の跡はそこにあった。深くはない。見ようとしなければ見えない。目ではなく、手で触れて初めて分かる窪みだった。
先代の工事に、ハンスは印を彫らなかった。契約を読まずに署名された工事で指を二本失い、それでもこの橋を見続けていた人が、自分の名を入れなかった工事。あの帳簿には印の代わりに、二重線と訂正が三つ残っている。
(礼を言わない代わりに、これを彫ったのね)
夕日が橋の上に差していた。荷馬車がもう一台、欄干に沿ってまっすぐ渡っていった。
欄干の内側で、石工の印が石に刻まれたまま残っていた。
ハンス親方の話を聞いていると、橋を渡るだけでも寄り道が増えそうです。
普段は通り過ぎる石の継ぎ目も、直したところを教われば、次に渡るときには探してしまう。
詳しい人と一緒に歩くと、同じ道なのに立ち止まる場所が変わるのは面白いですね。
とはいえ、仕事中の親方を質問攻めにするのは遠慮しておきます。
お茶の時間を狙っても、石の話になった途端、現場へ戻ってしまうかもしれません。




