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第3話 三枠目の馬車

——一年前。


 三枠目の紋が変わっていた。


 馬車置き場には四つの枠がある。一枠目と二枠目は伯爵家の馬車で、扉に鷹の紋が描かれている。四枠目は空いたままだ。三枠目だけが昨日までと違っていた。


 鷹が消えている。


 代わりに百合が描かれていた。白い花弁に銀の茎。ローデ家の紋だ。離れに住む人の、家の紋。


 塗料はまだ新しかった。朝の光に艶がある。昨日か一昨日か。乾いたばかりの白い百合が、持参金で買った馬車の上で光っていた。


 この馬車はリーゼルが嫁いだ翌年の春に、領の用向きで使えるよう仕立てたものだ。帳簿に載っている。『馬車一台 購入ならびに紋入れ代 八百グルデン』。リーゼルの字で、日付入りで。


 その馬車の紋が変わっている。


 (四百グルデン)


 塗り替えの相場は知っている。紋の入れ替えは地塗りからやり直すから、上塗りより高い。去年の秋に一枠目の馬車を塗り直した。あのとき二百八十グルデンだった。紋の変更が入ると割増がつく。


 四百グルデン。職人の月給二十人ぶんだ。


 馬車置き場の石畳に立ったまま、百合の紋を見上げていた。伯爵家の馬車置き場に、伯爵家の紋でない馬車が一台。空いた枠ではない。埋まってはいる。ただ、中身が変わっている。


 中庭を戻ろうとしたとき、離れのほうから足音がした。軽い靴の音だった。


 マリカ・ローデが中庭を渡ってきた。淡い金の髪を下ろしたまま、新しい衣の裾を揺らしている。馬車置き場のリーゼルに気づくと、まっすぐこちらへ歩いてきた。


「おはようございます、奥様。馬車をご覧になって? わたしの紋にしていただいたの」


 声が甘かった。自分の持ち物を見せる声だった。


「おはようございます、マリカ様」


「百合の紋ですのよ。ローデ家の」


 扉の百合を指でなぞった。


「奥様はお忙しいですものね。お馬車なんて構っていらっしゃらないでしょう?」


「お使いになるのですか」


「来週の社交にユリアン様と出かけるの。新しい衣も誂えたのよ」


 微笑んでいた。丁寧すぎる微笑みだった。丁寧すぎて、棘だけが残る。


 (構っていない、ではないの。紋を変えると聞いていなかっただけ)


 それを言おうとして、やめた。言えば答えが返ってくる。答えに答えれば、声が残る。帳簿の行のほうが、声より長く残る。


「きれいな紋ですね」


「でしょう? 茎の先まで銀にしてもらったの」


 それだけ言った。マリカは小首をかしげて笑い、離れのほうへ戻っていった。衣の裾が石畳を滑った。あの衣の代金も帳簿に載っている。先月は三着ぶんだった。




 帳簿部屋に入ると、ベルントが先に机に向かっていた。いつもの灰色の上着。いつものインクの染み。


「おはようございます、ベルントさん」


「おはようございます、奥様」


「今朝の書類はありますか」


「領税の控えが二通と、離れの衣装代が一通でございます」


「二通とも先月の分ですか」


「はい。月末の控えでございます」


 いつもの朝の確認だった。


「衣装代のほうは」


「先月と同じ仕立屋からでございます」


「金額は変わっていますか」


「五グルデンほど上がっております」


 書類を受け取った。


「三枠目の馬車の紋が変わっていましたが、ご存じでしたか」


 ペンが一瞬止まった。


「塗り替えの請求書が昨日の夕方に参りました。まだ奥様にはお見せしておりませんでした」


「昨日の夕方に」


 ベルントが頷いた。


「金額は」


「四百グルデンでございます」


 (やっぱり四百)


「請求はどなたのお名前で出ていますか」


「旦那様でございます」


「旦那様からのお言付けは」


「特にございません」


「発注書はございますか」


「ございません。口頭のご指示と聞いております」


 旦那様の名前で請求が出ている。帳簿を締めるのはリーゼルなのに、支出の連絡は来なかった。来ないまま請求書だけが届いた。


「帳簿に載せます。請求書を見せてくださいな」


「こちらに」


 ベルントが引き出しから紙を出した。職人の名前と金額と日付。三枠目、紋の塗り替え、ローデ家百合。四百グルデン。


「前回と同じ紋師ですか」


「はい。いつもの職人でございます」


「仕上がりまでに何日かかりましたか」


「五日と聞いております」


 リーゼルは紙を裏返して日付を確かめた。


「支払い期限は」


「月末でございます」


 リーゼルは請求書に目を通し、自分の机に置いた。袖口を折って帳簿を開こうとした。


 廊下から靴音が聞こえた。慣れた歩幅の、軽い足音。


 扉が開いた。


「おはよう。少しいいかな」


 ユリアンだった。


 帳簿部屋に夫が来ることは月に一度あるかないか。来ても用事は短い。ベルントに判を渡して帰る。今日は判を持っていなかった。


「おはようございます、旦那様」


 ベルントが立ち上がりかけた。ユリアンは片手で制した。


「座っていてくれ。すぐ済む」


「何かございましたか」


 青い目がこちらを見た。リーゼルを見ているが、手元は見ていない。帳簿も、ペンも、折り返した袖口も。この人が見ているのはいつもリーゼルの後ろ側だった。


「馬車の紋、見たかな」


「はい。今朝拝見しました」


「どうだった」


「百合の紋でした」


 ユリアンは小さく頷いた。


「マリカがね。自分の紋にしたいと前から言っていてね」


「前からですか」


「うん。半年くらい前かな。自分の馬車が欲しいって」


「いつごろのお話ですか」


「秋の終わりかな。職人の空きをずっと待っていたらしい」


「あの馬車は持参金で——」


「ああ、まあそうだけど。使うのはマリカだし」


 こちらの言葉が終わる前に被せてきた。聞いていないのではなかった。聞いた上で、畳んでいる。


「君なら気にしないだろう?」


 気にしないだろう。


 いつもの言い方だった。問いの形をしているが、答えを待っていない。五年のあいだ、この人はいつもそう言った。君なら分かるだろう。君なら構わないだろう。


「構いません」


「だろう?」


「マリカも喜んでいたよ。紋が入ると自分のものだって感じがするらしい」


 (自分のもの。わたしの持参金で買った馬車を、自分のもの)


 綺麗な手だった。帳簿を開いたことのない手だ。その手を上着のポケットに入れたまま、敷居のところに立っている。


「塗り替え代の請求が来ておりますが」


「ああ。いくらだった」


「四百グルデンです」


「そのくらいか。処理しておいてくれ」


 そのくらいか。職人の月給二十人ぶんを、そのくらいか。


「帳簿への記載でよろしいですか」


「うん。それでいい」


「畏まりました」


「紋師への支払いは月末でよろしいですか」


「ああ。急がなくていい」


「ところで、帳簿の締めはいつも通り君がやるんだな」


「はい。月末に」


「先月も問題なかっただろう」


 聞いているのではなく、確かめているだけの声だった。


「ございません」


「助かるよ。もう五年になるのか。ずっと任せきりで」


 ベルントのペンが止まった。リーゼルにはその音が聞き取れた。ペンが紙を離れたときの、かすかな空白。この補佐官のペンが止まるのは、何かを呑み込んでいるときだ。


「いえ。お気になさらず」


「帳簿の数字はよく分からないけれど。字がきれいだなとは思っていた」


 字がきれい。


 五年ぶんの収支と空欄と離れの出費のすべてが、字がきれい。


「ありがとうございます」


「……いや。礼を言うのも変だな」


「旦那様?」


「妻の仕事だ。礼を言うことじゃない」


 ——音が消えた。


 ベルントのペンは動かなかった。窓の外で鳥が一声鳴いた。中庭の石畳に朝の光が白く落ちている。


 妻の仕事だ。


 礼を言うことじゃない。


 五年だ。リーゼルはこの家の帳簿を五年締めてきた。持参金の出納を管理し、橋の通行税を数え、修繕費を工面し、離れの花代を記帳し、離れの衣の代を記帳し、空欄を見つけるたびに埋めた。空欄は月ごとに増えた。埋めても埋めても、翌月にはまた増えている。離れの方が住みはじめてからは、倍の速さで。


 その五年を、妻の仕事だと、この人は言った。仕事だから礼は要らないのだと。


 (ありがとうと言いかけて、やめたのね。ありがとうの代わりに、妻の仕事だと。——この人にとっては、同じことなのだわ)


 怒りは浮かばなかった。怒りが浮いたのは最初の一年だけだった。二年目から呆れに変わり、三年目にはそれも薄くなった。五年目の今は呆れの底を通り過ぎた場所にいる。名前のない場所だった。


 けれど手は覚えている。


「帳簿に載せておきます」


「ああ。頼むよ」


「他にご用は」


「いや。それだけだ」


 ユリアンは手を振って帳簿部屋を出ていった。靴音が廊下を遠ざかり、すぐに消えた。




 静かになった。


 ベルントのペンの音がゆっくりと戻った。


「奥様。領税の控え、先にお渡ししましょうか」


「あとで結構です」


 ベルントが頷いた。


「馬車の請求書、控えは取りましたか」


「はい。こちらの棚に」


「ベルントさん」


「はい」


「帳簿の項目名ですが」


 ペンを置いて顔を上げた。


「はい」


「『寵姫様の馬車の塗り替え代』と書きます」


 ペンの音が止まった。短い間があった。


「……はい」


 それだけだった。奥様の帳簿です、とは言わなかった。ただ頷いて、自分の帳簿に目を戻した。


 リーゼルは空いた行にペンを置いた。袖口の折り返しに気をつけながら、まず日付を書いた。それから項目欄に、一字ずつ書いた。


 寵姫様の馬車の塗り替え代。


 金額欄に四百と書いた。グルデン。


 帳簿に嘘は書かない。誰のための支出であっても。持参金で買った馬車の紋を塗り替えた。それを正確に書くなら、こう書くしかなかった。


 嫌味ではない。正しい記帳だ。支出には必ず「誰のために」を書く。父の商会で教わった帳簿のつけ方だった。


 (声を上げなくても、この行は残るわ。十年後にこの帳簿を開く人がいたら、この一行で全部分かる。誰の馬車に、誰の紋を、いくらで描いたか)


 インクが紙に染みていった。乾くのを待つあいだ、リーゼルは窓の外を見ていた。中庭の向こうに馬車置き場の屋根が見える。


 乾いたばかりの百合の紋がそこにある。朝の光の中で、持参金で買った馬車の上に、白く光っている。

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