第9話 死の神の加護
暗闇の中。
朔夜の意識は、深い水底から浮かび上がるように戻り始めていた。
遠くから聞こえる、獣の唸り声。
鼻を突く血の臭い。
そして、全身を襲う激痛。
「……っ」
ゆっくりと、朔夜は目を開いた。
視界に映ったのは、見覚えのある迷宮の天井だった。
「ここは……」
思い出す。
魔物に囲まれたこと。
逃げ場を失ったこと。
そして、自分が置き去りにされたこと。
「……そうか。僕は……」
言葉が途切れた。
目の前には、こちらを窺う魔物たちがいた。
先ほどまで襲いかかってきていたはずの魔物たちは、なぜか一定の距離を保っている。
唸り声を上げながら、じりじりと後ずさっていた。
まるで、目の前にいる何かを恐れているかのように。
「……どうしたんだ?」
朔夜が身を起こす。
その瞬間、魔物たちが一斉に飛び退いた。
理解できなかった。
自分は、ただの人間だ。
特別な力があるわけでもない。
圧倒的な戦闘能力があるわけでもない。
少なくとも、これまでの自分はそうだった。
なのに、どうして魔物たちは怯えているのだろう。
「……まあ、いいか」
朔夜はゆっくりと立ち上がった。
全身の傷が、いつの間にか塞がっている。
痛みもない。
自分の身体に何が起きているのかは分からなかったが、今は目の前の魔物たちをどうにかしなければならない。
朔夜は周囲を見渡した。
武器はない。
逃げ道もない。
それでも、不思議と恐怖は感じなかった。
「……来ないのか?」
問いかけても、魔物たちは動かない。
朔夜は一歩、前へ出た。
すると、一匹の魔物が悲鳴のような鳴き声を上げ、堪えきれなくなったように襲いかかってきた。
その瞬間だった。
朔夜の視界に、奇妙なものが映った。
魔物の身体に走る、無数の線。
そして、いくつかの点。
それが何なのか、考えるよりも先に理解していた。
そこを斬ればいい。
朔夜は右手を伸ばした。
何もなかったはずの空間から、一本の剣が現れる。
柄を握った瞬間、身体が自然に動いた。
一閃。
魔物の身体が、音もなく崩れ落ちた。
「……え?」
朔夜は自分の手を見つめた。
今、何をした?
武器を作り出したのか。
それとも、最初から持っていたのか。
分からない。
ただ、手の中には確かな重みがあった。
赤い刀身の剣。
その色は、迷宮に流れた血を思わせるほど鮮やかだった。
「……僕が、やったのか?」
答える者はいない。
残された魔物たちは、仲間が倒れたのを見て一斉に動き出した。
今度は逃げるためではない。
群れとなって、朔夜へと襲いかかってきた。
「……そうか」
朔夜は剣を構えた。
不思議なほど、身体が軽い。
魔物の動きが、はっきりと見える。
爪が振り下ろされる瞬間。
牙が迫る軌道。
身体を支える脚の動き。
そして、それぞれの身体に浮かび上がる死の線。
「なら……」
朔夜の瞳が、赤く染まった。
「全員、死ね」
次の瞬間、朔夜の姿が消えた。
一匹目の魔物が倒れる。
続いて、二匹目。
三匹目。
魔物たちは反撃する間もなく、次々と地面へ沈んでいった。
剣が閃くたび、命が途絶える。
そこに迷いはなかった。
かつて仲間たちと戦っていた頃の朔夜なら、倒すべき相手であっても、命を奪うことに躊躇しただろう。
だが、今は違う。
襲いかかってくるものを前に、慈悲を与える理由はなかった。
最後の魔物が崩れ落ちる。
静寂が戻った迷宮で、朔夜は剣を下ろした。
「……終わった、のか」
赤い刀身には、血の一滴も付いていなかった。
朔夜は剣を見つめる。
自分の知らない力。
見たこともない景色。
それなのに、身体はすべてを理解しているかのようだった。
「……ツクヨミ様」
ふと、彼女の顔が浮かんだ。
彼岸花の咲く場所で、自分の手を握ってくれた女性。
死を司る神。
そして、自分に力を授けてくれた存在。
「これが……あなたの加護なのですか?」
その問いに答えるように、頭の中で声が響いた。
『お目覚めね、朔夜』
「……ツクヨミ様!」
『ふふっ。ちゃんと目を覚ましてくれて嬉しいわ』
聞き慣れた優しい声に、朔夜の表情がわずかに和らぐ。
『身体の調子はどう?』
「傷は治っています。それに、不思議な力も使えるようになったみたいです」
『そう。それならよかったわ』
ツクヨミの声は、どこか弾んでいた。
『でも、無茶は駄目よ? せっかく私の大切な子が目を覚ましたのだから』
「……大切な子、ですか」
『ええ。何か問題でも?』
「い、いえ……!」
思わず声が裏返った。
こんな状況なのに、彼女の言葉ひとつで調子が狂ってしまう。
朔夜は小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます、ツクヨミ様。僕に力を授けてくださって」
『お礼なんていらないわ。あなたが生きていてくれる。それだけで十分よ』
その言葉を聞き、朔夜は静かに目を閉じた。
そして、再び目を開く。
もう、以前の自分ではない。
誰かに見捨てられたとしても。
誰かに必要とされなかったとしても。
自分の命を、他人に委ねるつもりはなかった。
「……僕は、生きます」
迷宮の奥へと続く道を見つめ、朔夜は歩き出した。
その背中を、誰も知らない場所からツクヨミが見守っていた。
『ええ。生きなさい、朔夜』
死を司る神に愛された少年は、今、再び歩き始めた。
その瞳に宿る赤い光は、迷宮の闇の中で静かに輝いていた。




