第7話 生きるということ
「なら、その願いを叶えるために、これからどうするのか。一緒に考えましょうね」
ツクヨミの言葉に、朔夜は小さく頷いた。
生きたい。
そう口にしたことで、何かが変わった気がした。
けれど、何もかもが解決したわけではない。
母は帰ってこない。
自分を裏切った者たちが、何を考えていたのかも分からない。
そして、ここがどこなのかさえ、朔夜には分からなかった。
「……ツクヨミさん」
「なあに?」
「僕は、これからどうなるんでしょうか」
ツクヨミは、少しだけ首を傾げた。
「どうなると思う?」
「……分かりません」
「そうね。今のあなたには、分からなくて当然だわ」
彼女は立ち上がり、彼岸花の咲く景色を見渡した。
「でも、ひとつだけ確かなことがあるわ」
「何ですか?」
「あなたは、これから自分で選べるということ」
朔夜は顔を上げた。
「自分で……?」
「ええ。誰かに言われたからではなく、誰かに嫌われたくないからでもなく。あなた自身が、どうしたいのかを考えて選ぶの」
ツクヨミは彼を振り返った。
「もちろん、選んだ結果、失敗することもあるでしょう。後悔することだってあるかもしれない」
彼女は微笑む。
「それでも、自分で選んだ道なら、少なくとも誰かの望みだけを叶えるために歩いた道ではないわ」
朔夜は黙って聞いていた。
今まで、自分はどうだっただろう。
母に心配をかけないように。
仲間の邪魔にならないように。
誰かの期待を裏切らないように。
そうやって、周囲のことばかりを考えていた。
もちろん、それがすべて間違いだったとは思わない。
母を大切に思っていたことも、仲間を信じていたことも、本当だった。
けれど、自分の気持ちを後回しにし続けた結果、自分が何を望んでいるのかさえ分からなくなっていた。
「……難しいですね」
朔夜が呟く。
「そうかしら?」
「だって、今までそんなことを考えたことがなかったので」
「なら、これから考えていけばいいのよ」
ツクヨミは、当たり前のことのように言った。
「生きている限り、選ぶ機会はいくらでもあるのだから」
その言葉を聞いて、朔夜は少しだけ目を伏せた。
生きている限り。
その言葉が、今はとても大切に思えた。
けれど、ひとつだけ気になることがあった。
「……ツクヨミさんは」
「うん?」
「死を司る神なんですよね」
「ええ、そうよ」
「それなのに……どうして、僕に生きてほしいと思うんですか?」
死を司る神。
その言葉を聞いたとき、朔夜は彼女が冷たい存在なのではないかと思った。
けれど、彼女は違った。
自分の話を聞いてくれた。
泣くことを許してくれた。
生きたいという願いを、受け止めてくれた。
だからこそ、不思議だった。
ツクヨミは少し考えるように視線を上げた。
「……そうね」
やがて、彼女は朔夜に向き直る。
「私は、死を司る神よ。でも、だからといって、すべての命に死んでほしいと思っているわけではないの」
その声は、穏やかだった。
「生まれた命には、いつか終わりが訪れる。それが私の司るもの。でも、いつ終わるかを決めるために、私は存在しているわけではないわ」
朔夜は息を呑んだ。
「死は、誰にでも訪れるもの。王であろうと、名もない村人であろうと、強大な魔物であろうとね」
ツクヨミは、彼岸花を見つめる。
「人間は、死を恐れる。だから、死を悪いものだと考える。そして、死を司る私も悪い神だと呼ぶ」
彼女は肩をすくめた。
「別に、それでも構わないわ。人間が何を信じ、何を恐れるかは、人間の自由だもの」
その表情に、怒りはなかった。
自分を悪と呼ぶ者たちに対して、憎しみを抱いている様子もない。
ただ、自分の役割を理解し、それを受け入れている。
「でもね、朔夜」
ツクヨミは、静かに彼の名前を呼んだ。
「死が平等に訪れるからこそ、生きている時間まで誰かに奪われていい理由にはならないのよ」
朔夜は目を見開いた。
「あなたが誰かのために生きることを選ぶのなら、それはあなたの自由。でも、誰かに自分の命を粗末に扱われることまで、受け入れる必要はないわ」
その言葉は、朔夜の胸に深く響いた。
自分の命を粗末に扱われること。
裏切られ、魔物の巣窟に取り残されたこと。
あのとき、自分は何を思ったのだろう。
どうして。
何が悪かったのだろう。
自分がもっと強ければ。
自分がもっと役に立っていれば。
そんなことばかりを考えていた。
けれど。
本当に、そうだったのだろうか。
自分が弱かったから、あんな目に遭っても仕方がなかったのだろうか。
「……僕は」
朔夜は、自分の手を見つめた。
「僕は、もう……あんなふうにはなりたくないです」
ツクヨミは、優しく微笑んだ。
「ええ」
「誰かに認めてもらうためだけに、無理をするのも……誰かに嫌われないために、自分の気持ちを隠すのも……」
声は、まだ少し震えていた。
それでも、朔夜は続けた。
「もう、嫌です」
それは、彼が初めて自分自身のために口にした願いだった。
ツクヨミは、そっと彼の頭を撫でた。
「よく言えたわね」
「……子供扱いしないでください」
「ふふっ。ごめんなさい」
そう言いながらも、彼女の手は離れなかった。
朔夜は困ったように眉を下げる。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、その手が離れてしまうことを、少しだけ惜しいと感じていた。
「……ツクヨミさん」
「なあに?」
「僕が、これからどんな人間になっても……あなたは、僕のことを否定しませんか?」
ツクヨミは、彼を見つめた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「あなたが何を選ぶのか、私は見届けるわ」
その答えは、無条件にすべてを許すという約束ではなかった。
彼女は、朔夜の代わりに生き方を決めるつもりなどない。
彼が何を選び、何を失い、どんな人間になっていくのか。
それを見届けること。
今の彼女が望んでいるのは、それだった。
「だから、あなたはあなたの望むように生きなさい」
朔夜は、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「……はい」
赤い彼岸花が揺れていた。
その景色は、最初に目を覚ましたときと何も変わっていない。
けれど、朔夜の心には、ほんのわずかな変化が生まれていた。
まだ未来は見えない。
何をすればいいのかも分からない。
それでも。
自分の人生を、自分で選んでいい。
そう思えたことだけは、確かだった。




