第6話 それでも生きたい
「……ん」
朔夜は、ゆっくりと目を開けた。
最初に目に入ったのは、赤い花だった。
どこまでも続く彼岸花。
見覚えのある景色に、朔夜はしばらくぼんやりとしていた。
自分は、どうしてここにいるのだろう。
確か、魔物に襲われて。
身体を喰われて。
そして――。
「お目覚めかしら?」
すぐそばから声がした。
朔夜が顔を向けると、白銀の髪を持つ女性が微笑んでいた。
「……ツクヨミさん」
「ええ。おはよう、朔夜」
まるで、朝の挨拶でもするかのような気軽さだった。
朔夜は慌てて身体を起こそうとした。
しかし、その動きは途中で止まる。
自分が、彼女に抱きかかえられていたことに気づいたからだ。
「……っ!?」
「どうしたの?」
「い、いえ……その……」
朔夜は戸惑いながら、そっと彼女から離れた。
頬が熱い。
どうして自分は、この人に抱きしめられていたのだろう。
「ふふっ。顔が赤いわよ?」
「そ、そんなことは……!」
「そう? 私は、あなたが甘えてくれて嬉しかったのだけれど」
「……っ」
何も言い返せなかった。
泣き疲れて眠ってしまったことは覚えている。
けれど、どこまで自分が話したのか。
どんな顔をしていたのか。
考えれば考えるほど、恥ずかしくなってくる。
「……忘れてください」
「嫌よ」
「えっ?」
「あなたが私に本音を話してくれたこと、忘れたくないもの」
ツクヨミは、楽しそうに笑った。
「それに、私はあなたのそういうところも好きよ」
「す、好きって……」
「ええ。好きよ」
あまりにも迷いのない返事だった。
朔夜は、言葉を失った。
まだ出会ったばかりなのに。
自分のことなど、ほとんど何も知らないはずなのに。
どうして、そんなことを言えるのだろう。
「……変な人ですね」
ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
「よく言われるわ」
ツクヨミは、まったく気にした様子もなかった。
「それで、朔夜」
彼女の声が、少しだけ変わった。
柔らかさはそのままに、どこか真剣な響きを帯びている。
「ひとつ、聞いてもいいかしら?」
「……何ですか?」
「あなたは、生きたい?」
その問いに、朔夜の表情が止まった。
生きたいのか。
そんなことを、今まで真剣に考えたことがあっただろうか。
もちろん、死にたいと思っていたわけではない。
明日も生きていたい。
母と一緒にいたい。
仲間と笑い合いたい。
そんな願いは、確かにあった。
けれど、今は違う。
母はいない。
仲間にも裏切られた。
自分が信じていたものは、もう何も残っていない。
それでも、生きたいと思えるのだろうか。
「……分かりません」
朔夜は正直に答えた。
「以前は、生きたいと思っていました。でも、今は……」
言葉が続かなかった。
何のために生きればいいのか。
誰のために生きればいいのか。
考えても、答えは見つからなかった。
ツクヨミは、静かに頷いた。
「そう」
彼女は責めなかった。
無理に励まそうともしなかった。
ただ、朔夜の目を見つめていた。
「なら、もうひとつ聞かせてちょうだい」
「……はい」
「あなたは、本当に死にたいの?」
朔夜は息を呑んだ。
死にたい。
その言葉を、自分の心に問いかける。
母に会いたい。
もう一度、あの頃に戻りたい。
何も知らずに笑っていた頃へ。
けれど、それは叶わない。
どれほど願っても、母は帰ってこない。
それなら、自分も死んでしまえばいいのだろうか。
そう考えた瞬間、朔夜の胸に浮かんだものがあった。
恐怖。
まだ死にたくない。
ここで終わりたくない。
裏切られたまま。
何もできないまま。
自分の本当の願いさえ、言葉にしたばかりなのに。
こんなところで終わりたくない。
「……嫌だ」
小さな声だった。
ツクヨミの瞳が、わずかに動いた。
「……え?」
「死にたく、ない……」
朔夜は自分の手を見つめた。
震えていた。
怖かった。
死ぬことが。
何もできずに終わることが。
誰にも本当の気持ちを伝えられないまま、消えてしまうことが。
「僕は……まだ、死にたくない」
今度は、はっきりと言えた。
「こんなところで終わりたくない……!」
その声は、彼岸花の咲く世界に響いた。
ツクヨミは、しばらく彼を見つめていた。
やがて、その口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
「……そう」
彼女は、そっと朔夜の手を取った。
「よく言えたわね」
その手を、両手で優しく包み込む。
「自分の生を望むことは、恥ずかしいことではないのよ」
朔夜は顔を上げた。
「あなたが生きたいと願うなら、私はその願いを大切にするわ」
ツクヨミの白銀の髪が、静かに揺れた。
「だって、あなたの命は、あなたのものなのだから」
朔夜は、彼女の言葉を噛みしめるように聞いていた。
自分の命は、自分のもの。
当たり前のことなのかもしれない。
けれど、今の朔夜には、その言葉が何よりも重く感じられた。
誰かのためだけに生きなくてもいい。
誰かに認められるためだけに、頑張らなくてもいい。
自分が生きたいと思うなら、それだけでいい。
「……ツクヨミさん」
「なあに?」
「僕は……生きたいです」
彼女は微笑んだ。
「ええ。聞こえたわ」
そして、朔夜の手を優しく握り直した。
「なら、その願いを叶えるために、これからどうするのか。一緒に考えましょうね」
彼岸花の向こう側で、白い道が静かに続いていた。
朔夜は、まだ知らない。
自分がどれほど大きな運命の入り口に立っているのかを。
ただひとつ、確かなことがあった。
彼はもう、自分の死を望んではいなかった。




