第5話 死は誰にも等しく
朔夜の寝息が、静かに響いていた。
泣き疲れたのだろう。
ツクヨミの腕の中で、少年は穏やかな表情を浮かべて眠っている。
先ほどまで、あれほど泣いていたというのに。
「……ふふっ」
ツクヨミは小さく笑った。
その手が、朔夜の黒髪を優しく撫でる。
「本当に、よく頑張ってきたのね」
返事はない。
眠っているのだから、当然だ。
それでも彼女は、語りかけるのをやめなかった。
「誰にも甘えられなくて、寂しいとも言えなくて……それでも、誰かを恨むことすら自分に許さなかった」
彼女の瞳が、わずかに細められる。
「そんな生き方を、いつまで続けるつもりだったのかしら」
責めるような口調ではなかった。
ただ、理解できないものを見るような、静かな問いだった。
人間は不思議な生き物だ。
自分が傷ついても、他人を守ろうとする。
自分が苦しくても、誰かのために笑おうとする。
そして、いつか訪れる死を恐れながら、まるで永遠に生きられるかのように振る舞う。
ツクヨミには、そのすべてが理解できるわけではなかった。
彼女は死を司る神だ。
命の終わりを見届けることが、彼女の役目。
人間がどれほど権力を持とうと、どれほど財を築こうと、どれほど多くの者に愛されようと。
死は、必ず訪れる。
王も、兵士も、貴族も、平民も。
善人も、悪人も。
誰一人として、その運命から逃れることはできない。
「死は、誰にも等しく訪れるもの」
ツクヨミは、静かに呟いた。
「そこに上も下もない。偉い者だから特別に長く生きられるわけでも、弱い者だから早く死ななければならないわけでもない」
彼女は朔夜の頬に触れた。
「それなのに、人間は死に善悪をつけたがる」
死を恐れるから、死を忌み嫌う。
死を司る神を、邪神と呼ぶ。
自分たちに都合のよいものを善とし、都合の悪いものを悪とする。
それが人間という生き物だった。
「……勝手なものよね」
ツクヨミは、ほんの少しだけ笑った。
怒っているわけではない。
悲しんでいるわけでもない。
ただ、そういうものだと知っているだけだった。
人間の価値観は、人間のもの。
神である自分が、それを正す必要はない。
死を恐れるのなら、恐れればいい。
自分を悪と呼びたいのなら、好きに呼べばいい。
ツクヨミは、自らの役目を曲げるつもりなどなかった。
「……でも」
彼女の視線が、腕の中の少年へと戻る。
「あなたは、少し違うわね」
朔夜は、眠ったままだった。
彼は死を望んでいたわけではない。
それでも、死の淵に立たされるまで、自分の生を大切にすることができなかった。
誰かのために。
誰かを傷つけないために。
誰かに嫌われないために。
自分の望みを押し殺し続けてきた。
そして今、ようやく自分の心を口にした。
それがどれほど小さな願いであろうと、どれほど身勝手な願いであろうと。
それは、彼自身のものだった。
「私は、あなたのそういうところが好きよ」
ツクヨミは微笑んだ。
「もちろん、まだまだ足りないけれど」
彼女は朔夜の額にかかった髪をそっと払う。
「もっと自分を大切にしなさい。あなたの命は、誰かのためだけにあるものではないのだから」
その言葉は、眠る少年に届かない。
それでも、ツクヨミは構わなかった。
今すぐ理解してもらう必要はない。
いつか、彼自身が気づけばいい。
自分の命をどう使うのか。
誰を守り、誰を遠ざけ、どんな道を歩くのか。
それを決めるのは、神ではない。
彼自身なのだから。
ツクヨミは、再び朔夜を抱きしめた。
「……大丈夫よ」
その声は、ひどく甘かった。
「もう、あなたは一人じゃないわ」
彼女は目を閉じる。
赤い彼岸花の向こう側。
生と死の境界に、静かな時間が流れていた。
けれど、現実の世界では。
朔夜の身体は、まだ魔物の巣窟に横たわっていた。
その肉体を喰らおうとしていた魔物たちは、いつしか動きを止めていた。
まるで、何かを恐れるように。
まるで、自分たちの目の前にいる存在が、もはや獲物ではなくなったことを理解したかのように。
朔夜の身体の奥で、何かが静かに変わり始めていた。
それが何なのか。
ツクヨミでさえ、まだすべてを理解しているわけではなかった。




