第4話 僕だけを愛してほしかった
「……僕だけを、見てほしかった……」
口にした瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
ずっと隠していた。
誰にも知られたくなかった。
そんなことを思ってはいけないと、自分に言い聞かせてきた。
母は頑張っていた。
仕事をして、祖母の世話をして、それでも自分に笑顔を向けてくれた。
そんな母に、これ以上何を望むというのだろう。
もっと一緒にいてほしい。
もっと自分を見てほしい。
もっと、自分を優先してほしい。
そんなことを言えば、母を困らせてしまう。
だから、言えなかった。
寂しくても。
会いたくても。
一人で食事をする夜も。
母が帰ってくるまで眠れなかった夜も。
ずっと、我慢してきた。
「……僕だけを、愛してほしかった」
朔夜の声が震えた。
「母さんには、僕だけを見ていてほしかった……!」
涙が頬を伝う。
一度こぼれてしまえば、もう止めることはできなかった。
「僕を……僕だけを愛してほしかった!!」
叫び声が、彼岸花の咲く世界に響いた。
「僕を一人にしないでほしかった!!!!」
声が裏返る。
喉が痛い。
胸が苦しい。
それでも、言葉は止まらなかった。
「どうして……どうして、僕を置いていったんだよ……!」
母が亡くなった日のことを思い出す。
もう二度と目を覚まさない母。
何度呼んでも、返事をしてくれなかった母。
いつも自分に向けてくれた笑顔は、もうどこにもなかった。
もっと話したかった。
もっと一緒にいたかった。
もっと、甘えたかった。
そんな当たり前の願いすら、もう叶わない。
「僕だって……寂しかったんだ……」
朔夜は顔を覆った。
「僕だって、母さんと一緒にいたかった……!」
彼岸花の赤が滲んで見えた。
涙のせいなのか、それとも、心が壊れそうになっているからなのか。
もう、分からなかった。
ツクヨミは何も言わなかった。
ただ、彼の隣に座り、泣き続ける朔夜を見つめていた。
やがて、彼女はそっと腕を伸ばした。
「……もう、いいのよ」
その声とともに、朔夜の身体が抱き寄せられる。
白銀の髪が頬に触れた。
柔らかな感触と、温かな体温。
それだけで、張り詰めていたものが崩れていく。
「泣いてもいいの。あなたは、ずっと我慢してきたのでしょう?」
「……っ」
「寂しかったのよね」
朔夜は答えられなかった。
ただ、彼女の胸元に顔を埋める。
「本当は、もっと甘えたかったのでしょう?」
その言葉に、朔夜は小さく頷いた。
「……うん」
子供のような返事だった。
けれど、今はそれでよかった。
「もっと一緒にいたかった……」
「ええ」
「もっと、僕を見てほしかった……」
「ええ、そうね」
ツクヨミは、何度でも頷いた。
否定しない。
責めない。
そんな願いを抱いてしまったことを、悪いことだとは言わない。
朔夜は初めて、自分の本音を誰かに受け止めてもらっていた。
どれほどの時間が流れたのだろう。
やがて、泣き声が少しずつ小さくなっていった。
それでも、朔夜はツクヨミから離れようとしなかった。
離れてしまえば、また一人になってしまう気がしたから。
「……ごめんなさい」
しばらくして、朔夜が小さく呟いた。
「どうして謝るの?」
「だって……こんな、情けないところを……」
「情けない?」
ツクヨミは不思議そうに首を傾げた。
「私は、あなたが自分の気持ちを話してくれて嬉しいわ」
「……え?」
「あなたはずっと、自分の本当の気持ちを押し殺してきたのでしょう? それを私に話してくれた。それだけで、私は嬉しいの」
彼女は朔夜の頭を優しく撫でた。
「だから、もう謝らなくていいのよ」
朔夜は何も答えなかった。
ただ、再び彼女の胸元に顔を埋めた。
温かかった。
その温もりが、ひどく懐かしかった。
母を失ってから、ずっと欲しかったもの。
誰かに甘えてもいいという安心感。
弱い自分を見せても、拒絶されないという確信。
それを今、目の前の女性が与えてくれていた。
「……ツクヨミ、さん」
「なあに?」
「……もう少しだけ、このままでいてもいいですか?」
その問いに、ツクヨミは目を細めた。
「もちろんよ」
そして、彼を抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
「あなたが望むなら、いつまでだってこうしていてあげるわ」
彼女の声は、どこまでも優しかった。
けれど、その瞳の奥には、人間とは異なる何かが宿っていた。
命が生まれ、育ち、やがて終わりを迎える。
どれほど愛されようと、どれほど憎まれようと、死から逃れられる者はいない。
それを誰よりも知っている神。
死を司る者。
ツクヨミは、腕の中で泣き疲れた少年を見つめた。
「……本当に、愛おしい子」
その声は、彼には届かなかった。
朔夜はもう、静かな寝息を立て始めていた。
ツクヨミは彼の頭を撫で続ける。
まるで、二度とこの子を孤独にさせないと誓うかのように。
赤い彼岸花が、静かに揺れていた。




