第3話 心の奥底
「あなたが、本当は何を望んでいたのか」
ツクヨミの言葉が、朔夜の胸に残っていた。
本当は何を望んでいたのか。
そんなもの、決まっている。
決まっているはずなのに、どうしても口に出せなかった。
「……分かりません」
朔夜は視線を落とした。
「そう」
ツクヨミは、それ以上問い詰めなかった。
彼の隣に腰を下ろし、赤い彼岸花を眺める。
「なら、私が答えを教えてあげましょうか?」
「……え?」
「あなたは、誰かに優しくしたかったのではないわ。誰かを傷つけたくなかったのでもない」
ツクヨミは、朔夜の顔を覗き込んだ。
「本当は、誰かに愛してほしかったのではなくて?」
朔夜の身体が、ぴくりと震えた。
「……違います」
「そうかしら?」
「違う……!」
思わず声が大きくなる。
けれど、ツクヨミは怯まなかった。
怒ることも、悲しむこともなく、ただ彼の瞳を見つめていた。
「なら、どうしてそんなに苦しそうなの?」
「それは……」
言葉が詰まる。
胸の奥が痛かった。
誰にも触れられたくなかった場所を、指先でなぞられているようだった。
「あなたは、お母様のようになりたかったと言ったわね」
「……はい」
「お母様は、あなたに優しかったのでしょう?」
「はい」
「なら、あなたも誰かに優しくすれば、同じように愛してもらえると思ったのかしら?」
朔夜は答えなかった。
答えられなかった。
そんなことを考えたことはない。
少なくとも、そう思っていた。
けれど、記憶を辿るほど、胸の奥に沈めていた感情が浮かび上がってくる。
母が仕事から帰ってくるのを待っていた夜。
祖母の世話をしている母の背中を、遠くから眺めていた時間。
母が疲れた顔で笑うたびに、何も言えなくなったこと。
本当は、もっと一緒にいたかった。
もっと自分を見てほしかった。
けれど、母が頑張っていることを知っていたから。
母が苦しんでいることを知っていたから。
寂しいなんて、言えなかった。
「……僕は」
声が震えた。
「僕は、そんなこと……」
否定しようとした。
けれど、続きが出てこない。
ツクヨミは、そっと彼の頭に手を伸ばした。
「無理に言葉にしなくてもいいのよ」
優しい声だった。
「あなたが何を望んでいたとしても、私は責めたりしないわ」
その言葉を聞いた瞬間、朔夜の目が見開かれた。
責めない。
そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
誰かに迷惑をかけてはいけない。
誰かを困らせてはいけない。
わがままを言ってはいけない。
いつからか、そう考えることが当たり前になっていた。
だから、寂しくても笑った。
苦しくても我慢した。
助けてほしくても、自分から手を伸ばすことができなかった。
そして、仲間に裏切られたときでさえ。
自分が何か間違えたのではないかと、考えてしまった。
「……どうして」
朔夜は顔を上げた。
「どうして、あなたは……」
言葉が途切れる。
何を聞きたかったのか、自分でも分からなかった。
どうして、そんなに優しいのか。
どうして、自分のことを見てくれるのか。
どうして、何も知らないはずの自分に、そんな言葉をかけてくれるのか。
ツクヨミは微笑んだ。
「私は死を司る神よ」
彼女の声が、静かに響く。
「人間がどれほど偉かろうと、どれほど力を持っていようと、死の前では等しく同じ。王も、貴族も、平民も、魔物もね」
彼女は彼岸花を一輪、そっと指先で撫でた。
「人間は、死を恐れるわ。だから死を悪と呼び、死を司る私まで悪しき神と呼ぶ」
その声音には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、揺るがない事実を語るような静けさがあった。
「けれど、私はそれを気にしていないの。死に善悪を決めるのは人間の仕事。私の仕事は、死を司ることだから」
朔夜は、黙って彼女の話を聞いていた。
「だからね、朔夜」
ツクヨミは彼に向き直った。
「あなたが何を望んでも、私はそれだけであなたを否定したりしないわ」
その言葉が、胸に刺さった。
優しくされることが怖かった。
その優しさに甘えてしまえば、もう我慢できなくなる気がした。
今まで必死に押し込めてきたものが、全部あふれ出してしまう気がした。
「……僕は」
朔夜の唇が震える。
「僕は、母さんに……」
そこで、声が途切れた。
目の奥が熱い。
泣きたくなんてなかった。
もう十分に苦しんだ。
これ以上、惨めな姿を見せたくなかった。
けれど、ツクヨミは彼から目を逸らさなかった。
まるで、どんな言葉が出てきても受け止めると告げるように。
朔夜は唇を噛みしめた。
そして、ようやく。
ずっと誰にも言えなかった本音を、口にしようとした。
「……僕は、母さんに……」
声が震える。
それでも、今度は口を閉じなかった。
「僕だけを……見てほしかった……」
彼岸花が、静かに揺れた。
朔夜の頬を、一筋の涙が伝った。




