第2話 優しさと弱さ
目を開けると、そこには赤い花が咲いていた。
どこまでも続く彼岸花の群生地。
風は吹いていない。それなのに、花弁だけが揺れている。
空を見上げても、太陽はない。
月も、星も、雲さえも見当たらなかった。
ただ、赤い花と、どこまでも続く白い道だけがある。
「……ここは」
声を出したつもりだった。
けれど、自分の声が聞こえない。
身体を動かそうとして、ようやく気づいた。
痛みがない。
つい先ほどまで、全身を魔物に喰らわれていたはずだった。腕も、脚も、腹も。どこもかしこも、まともな状態ではなかったはずなのに。
今の自分には傷ひとつ見当たらない。
「不思議そうな顔をしているわね」
背後から声がした。
振り返る。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
長い白銀の髪が、夜のない世界によく映えている。透き通るような白い肌。整った顔立ち。そして、こちらを見つめる瞳には、どこか人間離れした静けさがあった。
美しい人だと思った。
人間なのかどうかさえ、朔夜には分からなかった。
「……あなたは?」
女性はすぐには答えなかった。
代わりに、彼の顔をじっと見つめる。
まるで、ずっと探していたものをようやく見つけたかのように。
「そうね。まずは自己紹介から始めましょうか」
女性は柔らかく微笑んだ。
「私はツクヨミ。死を司る神よ」
「……神?」
聞き返した声は、思ったよりもかすれていた。
死を司る神。
その言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「それじゃあ、ここは……」
「ええ。あなたが思っているとおりの場所かもしれないわね」
ツクヨミは彼岸花へと視線を向けた。
「でも、今はそんなことを気にしなくてもいいの。あなたは少し、疲れてしまったのでしょう?」
その声は優しかった。
まるで、泣き疲れた子供をあやす母親のように。
けれど、朔夜はその優しさに身を委ねることができなかった。
どうしてだろう。
目の前の女性が恐ろしいわけではない。
むしろ、彼女の声を聞いていると、張り詰めていた何かが緩んでいくような気さえした。
それでも。
「……僕は、死んだんですか?」
その問いに、ツクヨミはすぐには答えなかった。
彼女は朔夜の前まで歩み寄り、そっと彼の頬に触れる。
「あなたは、死にかけていたわ」
「……」
「身体を喰われながら、それでも生きようとしていた。痛かったでしょう。怖かったでしょう」
頬に触れる指先は、驚くほど温かかった。
「それなのに、あなたは最後まで誰かを恨もうとはしなかった」
朔夜の表情がわずかに強張る。
「……どうして、それを」
「私は死を司る神なのよ。命が終わろうとする場所には、私の目が届くこともあるわ」
ツクヨミは微笑んだ。
「だから、教えてちょうだい。どうしてあなたは、そこまで優しくあろうとするの?」
「優しく……?」
朔夜はその言葉を繰り返した。
自分が優しい。
そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
「仲間に裏切られて、あんな目に遭わされても。あなたは誰かを憎むより先に、自分を責めようとしていた」
「それは……」
言いかけて、口を閉じる。
何と答えればいいのか分からなかった。
自分でも、よく分かっていなかったからだ。
どうして、あのとき怒鳴らなかったのか。
どうして、もっと早く疑わなかったのか。
どうして、最後まで仲間を信じようとしてしまったのか。
考えようとすると、胸の奥が重くなった。
「……母さんが」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
ツクヨミは何も言わず、続きを待っている。
「母さんが、優しい人だったんです」
朔夜は彼岸花を見つめた。
「仕事で疲れていても、家に帰れば祖母の世話をしていました。自分だって大変だったはずなのに、いつも僕には笑ってくれて……」
思い出すのは、疲れた顔だった。
それでも、朔夜を見ると笑ってくれた母の顔。
遅い時間に帰ってきても、食事を用意してくれたこと。
眠る前に、頭を撫でてくれたこと。
どれも、特別なことではなかったのかもしれない。
けれど、朔夜にとっては、それが世界のすべてだった。
「だから僕も……母さんみたいな人間になりたかったんです」
ツクヨミは、静かに彼の話を聞いていた。
やがて、彼女は口を開く。
「……本当に、それは優しさだったのかしら?」
朔夜の顔から、表情が消えた。
「え……?」
「あなたのお母様は、仕事も家族も、どちらも捨てられなかったのでしょう?」
ツクヨミの声は穏やかなままだった。
「どちらかを選べば、もう片方を傷つけてしまう。だから、どちらも自分で背負おうとした」
彼女は朔夜の頬から手を離した。
「その結果、自分自身を壊してしまった」
赤い花が揺れる。
「それを、本当に優しさと呼べるのかしら?」
朔夜は答えられなかった。
母を否定された。
そう思った。
けれど、目の前の女性の言葉を、ただの間違いだと切り捨てることもできなかった。
母はいつも疲れていた。
笑っていても、苦しそうなときがあった。
大丈夫だと言いながら、何度も体調を崩していた。
それでも、母は休もうとしなかった。
そして、ある日。
もう二度と、帰ってこなくなった。
「……やめてください」
小さな声だった。
「母さんは……優しい人だったんです」
「ええ。そうかもしれないわね」
ツクヨミは否定しなかった。
「でもね、朔夜」
初めて名前を呼ばれた。
その響きに、彼の心臓が小さく跳ねる。
「優しさと弱さは、時にとてもよく似ているの」
ツクヨミは、まっすぐに彼を見つめた。
「誰かを見捨てられない。誰かを傷つけたくない。嫌われたくない。だから、自分が傷つくことを選んでしまう」
一歩、彼女が近づく。
「あなたも、そうなのではなくて?」
朔夜は唇を噛んだ。
何かを言い返さなければならない。
母は間違っていなかったと。
自分は間違っていないと。
そう言いたいのに、言葉が出てこなかった。
「……違う」
ようやく出てきた声は、ひどく弱々しかった。
「僕は……」
その先が続かない。
ツクヨミは、急かさなかった。
ただ、彼が言葉を見つけるまで、ずっとそばに立っていた。
どれほどの時間が流れたのだろう。
やがて朔夜は、俯いたまま呟いた。
「……僕は、母さんみたいになりたかっただけなんです」
その言葉は、誰に向けたものだったのか。
自分自身にか。
それとも、もう会えない母にか。
朔夜にも分からなかった。
ツクヨミは、そんな彼を見つめていた。
その瞳には、神としての静かな威厳と、彼にだけ向けられる不思議な慈しみが宿っていた。
「そう……」
彼女は小さく頷く。
「なら、もう少しだけ考えてみましょうか」
「……何を?」
「あなたが、本当は何を望んでいたのか」
ツクヨミは微笑んだ。
「あなた自身の心が、何を叫んでいるのかを」
朔夜は顔を上げた。
その問いに答えることが、どうしてこんなにも怖いのだろう。
彼岸花の向こうには、どこまでも白い道が続いていた。
けれど、朔夜にはまだ、その先へ進むことができなかった。




