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第1話 死の淵

――どうして、僕なんだろう。


 薄暗いダンジョンの奥深く。


 千夜朔夜は、冷たい地面に倒れていた。


 身体が動かない。


 全身を襲う激痛に、息をすることさえままならなかった。


 視界はぼやけ、耳鳴りが止まらない。


 それでも、かろうじて意識だけは保っていた。


 死にたくない。


 ただ、それだけを考えていた。


「……ぁ」


 声を出そうとした。


 けれど、喉から漏れたのは、かすれた息だけだった。


 目の前には、魔物がいる。


 醜悪な顔に、鋭い牙。


 口元から滴る涎が、地面に落ちている。


 その数は、一匹や二匹ではなかった。


 何十という魔物が、倒れた朔夜を取り囲んでいた。


 逃げなければ。


 立ち上がらなければ。


 そう思うのに、指先ひとつ動かせない。


 魔物の一匹が、ゆっくりと近づいてきた。


 朔夜は、必死に身体を動かそうとする。


 だが、無情にも魔物の牙が足に食い込んだ。


「っ……!」


 激痛が走る。


 肉を食いちぎられる感覚に、朔夜の顔が歪んだ。


 声を上げようにも、声が出ない。


 痛い。


 怖い。


 嫌だ。


 死にたくない。


 こんなところで、死にたくない。


 ――どうして。


 頭の中に、ひとつの疑問が浮かんだ。


 どうして、こんなことになったのだろう。


 ほんの少し前まで、朔夜は仲間たちと一緒にいた。


 勇者パーティー。


 人々を脅かす魔物を討伐し、世界を守るために戦う者たち。


 勇者の天城悠真を中心に、回復役の小川白雪、タンクの加藤仁、魔法士の冬月麗華、剣士の藤堂朱里、そして朔夜たちが所属するパーティーだった。


 決して、仲が悪かったわけではない。


 少なくとも、朔夜はそう思っていた。


 苦しい戦いを乗り越えたこともある。


 傷ついた仲間を助けたこともある。


 笑い合ったことだって、何度もあった。


 だから、信じていた。


 仲間たちを。


 自分が彼らの一員であることを。


 けれど。


 朔夜は、ここにいる。


 誰もいないダンジョンの奥で、魔物に食われている。


 仲間たちは、もういない。


 自分を置いて、先へ進んでしまった。


 仕方がなかったのかもしれない。


 あのときは、そうするしかなかったのかもしれない。


 誰かを責めることなど、できないのかもしれない。


 そんな考えが、頭の中を巡っていた。


 それでも。


「……どうして、僕なんだよ」


 かすかな声が漏れた。


 自分でも驚くほど、弱々しい声だった。


 答える者はいない。


 魔物たちは、目の前の獲物を食らうことに夢中だった。


 朔夜の言葉など、聞いていない。


 当然だ。


 魔物に、人間の事情など関係ない。


 彼らにとって、朔夜はただの獲物なのだから。


 そして、それは。


 自分を置いていった仲間たちにとっても、同じだったのだろうか。


 そんな考えが浮かび、朔夜は目を閉じた。


 違う。


 そう信じたかった。


 何か理由があったはずだ。


 自分を見捨てるしかない事情があったのだと。


 そうでなければ。


 そう考えなければ。


 これまで信じてきたものが、何もかも嘘になってしまう。


 けれど、どれだけ考えても、答えは見つからなかった。


 身体の感覚が、少しずつ遠のいていく。


 痛みすら、曖昧になり始めていた。


 ああ。


 もう、駄目なのかもしれない。


 そう思った瞬間、母の顔が浮かんだ。


     ◇


 優しい人だった。


 朔夜の母は、とても優しい人だった。


 仕事をしながら、祖母の介護もしていた。


 毎日忙しく、疲れているはずなのに、朔夜の前ではいつも笑っていた。


 帰宅すれば、どれだけ遅い時間でも声をかけてくれた。


 食事を用意してくれた。


 頭を撫でてくれた。


 何気ない日常だった。


 当たり前だと思っていた。


 その当たり前が、永遠に続くのだと思っていた。


 けれど、そうではなかった。


 母は、亡くなった。


 仕事と介護を続けた末に、無理がたたって倒れ、そのまま帰ってこなかった。


 残された朔夜は、一人になった。


 それでも、母を恨んだことはなかった。


 母がどれだけ頑張っていたのか、知っていたから。


 母がどれだけ自分を大切にしてくれたのか、知っていたから。


 だから、母のようになりたかった。


 誰かを責めず。


 誰かを傷つけず。


 誰かのために、優しく生きられる人間になりたかった。


 ――本当に?


 不意に、心の奥から声が聞こえた気がした。


 朔夜は目を開けようとした。


 けれど、瞼は重く、ほとんど動かなかった。


 違う。


 そんなはずはない。


 自分は、母のようになりたかった。


 それだけだ。


 それだけのはずなのに。


 どうして、こんなにも苦しいのだろう。


 どうして、こんなにも寂しいのだろう。


 どうして。


 どうして。


 どうして――。


 意識が、闇に沈んでいく。


 最後に思い浮かんだのは、母の笑顔だった。


 もう一度、会いたい。


 もう一度、声を聞きたい。


 もう一度だけでいいから。


 ――僕を、一人にしないで。


     ◇


 音が消えた。


 痛みも、苦しみも、何もかもが遠ざかっていく。


 朔夜は、ゆっくりと目を開けた。


「……ここは?」


 そこには、見知らぬ景色が広がっていた。


 どこまでも続く、赤い花。


 地面を覆い尽くすように咲き乱れた彼岸花が、静かに揺れていた。


 風が吹いている。


 けれど、空には太陽も月もない。


 明るいのか、暗いのか。


 昼なのか、夜なのか。


 その区別さえ、わからなかった。


 朔夜はゆっくりと身体を起こした。


 痛みはない。


 先ほどまで動かなかった身体も、何事もなかったかのように動いている。


 自分の手を見つめる。


 傷ひとつない。


「……夢?」


 呟いてみた。


 返事はない。


 周囲には、彼岸花が咲いているだけだった。


 静かだった。


 あまりにも静かで、自分の呼吸さえ不自然に感じられる。


 ここはどこなのだろう。


 ダンジョンではない。


 少なくとも、朔夜が知っている場所ではなかった。


 死んだのだろうか。


 それとも、まだ生きているのだろうか。


 考えても、答えは出ない。


 朔夜は立ち上がった。


 足元の彼岸花が、かすかに揺れる。


 一歩、踏み出す。


 また一歩。


 どこへ向かえばいいのかもわからないまま、歩き始めた。


 そのときだった。


 ――カツン。


 背後から、何かが地面を叩く音がした。


 朔夜の足が止まる。


 風が、止んだ。


 彼岸花の揺れが、ぴたりと収まる。


 静寂。


 朔夜は、ゆっくりと振り返った。


 赤い花々の向こう。


 遠くに、誰かが立っていた。


 その姿は、まだはっきりとは見えない。


 ただ、こちらを見ている。


 ずっと前から、そこにいたかのように。


 朔夜は息を呑んだ。


 その存在を認識した瞬間、なぜか本能が告げていた。


 近づいてはいけない。


 逃げなければならない。


 けれど、身体は動かなかった。


 相手が何者なのか、わからない。


 それなのに、目を逸らすことができない。


 やがて。


 彼岸花の向こうから、声が響いた。


「……やっと、会えたわね」


 女の声だった。


 優しく、穏やかで。


 それでいて、どこか死の気配を感じさせる声。


 朔夜は、ただ立ち尽くしていた。


 彼岸花が揺れる。


 そして、赤い花々の向こうに立つ存在が、ゆっくりと歩き始めた。


 ――死の淵で、運命が動き始める。


 それが、千夜朔夜と死の神ツクヨミの出会いだった。

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