第六章:記録するな、剣を抜け
(――逃げる? 私が、ここで?)
ヴェルトの視界が、再びあの極限まで引き延ばされた静止の世界へと移行する。
自動人形が振り上げた大刀の切っ先から、空間の歪みが同心円状の波紋となって室内に広がっていく。その質量、その速度、その運動エネルギー。いつもなら、彼の頭脳はそれらをただの無機質な「数値の集まり」として冷徹に、客観的にスキャンし、ノートに記述するだけで満足していたはずだった。
しかし、今回の脳内モノローグは、これまでと根本的に異なっていた。
冷徹を極めた計算の海の底から、前世の記憶――『侍』としての、決して退かぬ誇りと、理不尽に対する激しい怒りの濁流が、音を立てて噴出し始めていたのだ。
(前世の私は、ただの剣術の研究者に過ぎなかった。あるいは、己の技術を実戦で振るう機会もないまま、時代の巨大な波に飲まれて消えていった、ただの傍観者だった。……この世界に生まれ変わり、『記録者』という都合の良い仮面を手に入れたからといって、私はまた、目の前の理不尽を『ただ見ているだけ』で済まそうというのか?)
壁際で、血に染まりながらも必死に自分を逃がそうとする銀髪の少女。
世界の崩壊を防ぐため、理不尽な禁忌にその小さな身体で立ち向かおうとしたアルテアの『意志』。
それらすべてを「形あるものの滅びのプロセス」などという退屈な言葉で片付け、冷たいノートに書き留めるだけで、本当に私の存在理由は満たされるのか?
(――否。私の頭脳が、私の目が、私のこの腕が――そんな不完全な結末を『真実』とは記録していない!)
ヴェルトは、手元に落ちていた真っ二つに折れた羽ペンを、迷うことなく地面へと投げ捨てた。
そして、ゆっくりと、天を突くように背筋を伸ばして立ち上がる。彼の周囲の大気が、瞬時に絶対零度へと氷結したかのように静まり返り、自動人形の放つ歪みの波動すらも、彼の体表面でピタリと霧散した。
「……ヴェルト……?」
アルテアが、血の混じった息を吐きながら、信じられないものを見るようにその目を見開いた。
ヴェルトは、腰に下げた安物の、しかし前世の『刀』の理合を完璧に再現できる一振りの柄へと、静かに、深く右手をかけた。彼の姿勢は、この世界のどの騎士とも、どの暗殺者とも異なる。極限まで腰を落とし、重心の全てを爆発の瞬間のために収縮させた、神速の『居合い』の構え――。
「私は記録者だ」
ヴェルトの声が、崩壊しつつある遺跡のドーム内に、低く、重く、地鳴りのように響き渡った。
「――だが、私の目の前で紡がれる『続きの物語』を、お前のような歪んだ不条理に汚させるわけにはいかない。記録するな、と彼女は言った。ならば、今この瞬間だけは――」
カチリ、と刀身が鞘の内側で微かな硬質な音を鳴らす。
「――俺の意志で、剣を抜こう」
「死に損ないの羽虫が、往生際の悪い構えを! 叩き潰せ、零式!」
黒幕の男の絶叫とともに、自動人形『三花・零式』の大刀が、重力も空気抵抗も無視した「絶対不可避」の軌道を描きながら、ヴェルトの脳頭へと振り下ろされた。空間そのものが大刀の質量に引っ張られ、光の屈折すらも歪む、まさに世界を決壊させる一撃。
しかし、ヴェルトの頭脳は、すでに人形を駆動させている「歪みのアルゴリズム」を完全に解体していた。
(三花流の完成形が空間を歪めるというのなら、その歪みが波及する『周期』の隙間を突く。
第一の型『一輪』、第二の型……それらすべての連動の繋ぎ目にある、わずか千分の一秒の『論理的な破綻』。
そこへ、この世界の誰も知らない、前世の極致――『零の型(居合い)』を滑り込ませる)
「――御肉を断つ、一閃」
シュォォォッ!!!
空間から、すべての音が完全に消失した。
アルテアの目には、ヴェルトの身体が一瞬にして『光の粒子』となって前方の闇へと消え去ったように見えた。大刀が床を叩くよりも早く、ヴェルトの放った神速の抜刀は、人形の周囲に展開されていた「歪みの壁」の周期の隙間を、正確に、ロジカルに潜り抜けていた。
刃が空気を割る音すら置き去りにする、極限の居合い。
次の瞬間、ヴェルトは人形の背後、数メートルの位置に静かに着地していた。
彼は、流れるような無駄のない静かな動作で剣を鞘へと戻し――カチリ、と完全に納刀した。
ガ、ガガガ……フツッ……。
自動人形の紅い眼座から、急激に光が失われていく。
数秒の静寂の後、人形の周囲を覆っていた目に見えない「世界の歪み」が、ガラスが粉々に砕け散るような音を立てて大気中へと霧散した。
続いて、その巨大な鋼鉄の躯体が、斜め一文字に、寸分の狂いもなく真っ二つに両断され、激しい金属音を立てて石畳へと崩れ落ちた。
「な……ななな、何が起きた……! 帝国の、最高兵器が……ただの一撃だと……!?」
黒幕の男が、恐怖のあまり完全に腰を抜かし、泥まみれの床を這い回りながら絶叫した。彼の目の前に立つ旅人は、もはや無力な記録者などではない。二百年の歴史を、その論理の刃で一瞬にして書き換えた、真の『特異点』だった。
ヴェルトは振り返り、血の一滴すら付着していない安物剣の柄から静かに手を離し、淡々と言った。
「形あるものは、いつか滅びる。君たちの歪んだ野望も、ここで『終了』と私の脳内に記録された。これ以上の追記は不要だ」
自身の全能の象徴であった人形を破壊され、圧倒的な死の恐怖に支配された黒幕の男は、足元に転がる巻物を掴む余裕すらなく、背後にあった古い転移の魔導陣へと飛び込み、霧のように遺跡の奥へと逃げ去っていった。
遺跡の最奥に、本当の静寂が戻ってくる。
ヴェルトは乱れた衣服を整えると、すぐに壁際へと歩み寄り、倒れているアルテアの前に静かにしゃがみ込んだ。
「大丈夫かい、アルテア」
アルテアは、呆然とした表情のまま、ヴェルトを見上げていた。
彼女の瞳から猜疑心は完全に消え去り、代わりに、胸の奥から湧き上がるような、息の根を止められるほどに美しく圧倒的な『強さ』に対する、言葉にできない熱い感情が焼き付けられていた。
「あなた……本当に、ただの……記録者なの……?」
「ああ」
ヴェルトはそう言って、床に落ちていた、三花流の秘密が隠された封印の巻物を丁寧に拾い上げ、彼女の小さな手へとそっと戻した。
「ただ、少しだけこの先の『続き』に興味が湧いてしまった、しがない記録者さ」




