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第一章:酒場の奇妙な旅人(後編)

夜。王都の裏路地は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、月光さえも届かない深い闇に包まれていた。

建ち並ぶレンガ造りの建物の隙間から覗く空は、まるで黒いインクを流し込んだかのようだ。石畳は昼の間に吸い込んだ熱を失い、夜露に濡れて鈍い鈍色にびいろの光を反射している。


カツン、カツン、と、ヴェルトが履く古びた革靴の音だけが、規則正しい一定のテンポで夜の静寂に響いていた。

彼は、右手に持ったランタンの頼りない橙色の光で足元を照らしながら、今夜の宿へと向かって歩を進めていた。


「――おい、待ちくたびれたぜ、記録者の兄ちゃん」


闇の奥、レンガの壁の影から、にじみ出るように三つの影が現れた。

中央に立つのは、先ほど『錆びた錨亭』で醜態をさらした大男、ガロンだ。しかし、今の彼の目は酒の濁りが完全に消え失せ、冷酷な獣のような殺気を帯びている。

その左右を固めるのは、細身の体躯に漆黒の夜着をまとい、手慣れた様子で逆手に短剣ダガーを構える、目つきの鋭い二人の男たち。王都の裏社会で暗殺や恐喝を専門とする、本物の『プロ』たちだった。


ヴェルトは足を止め、ランタンをゆっくりと地面へ置いた。

「昼間の借りを返しにきた、という単純な怨恨(復讐)ではなさそうだね」


「へっ、頭が回るガキは嫌いじゃないが、運が悪かったな」

ガロンは大剣を音もなく抜き放ち、その凶悪な刃を月光に晒した。


「お前が探している『三花流』の紋様……あれについて、これ以上探索を止めるようにってな、お前らみたいな旅人が逆立ちしても届かねえ『上流の方』から、直々の依頼が回ってきたんだよ。ここでその生意気なノートごと、灰になってもらう」


左右の暗殺者たちが、足音を完全に消したまま、左右へと別れてじわじわと距離を詰めてくる。

夜風が路地を吹き抜け、ガロンの大剣の風切り音が微かに鳴った。


(――状況を再分析。人数:三。交戦距離:四・二メートル。

左側の個体は前傾姿勢が深く、短剣の刃を内側に隠している。初動で頸動脈を狙う刺突を放つ確率、九十二%。

右側の個体はやや腰が低く、視線が私の膝下に固定されている。回り込んで下肢の腱を断つ軌道。

中央のガロンは、大剣の質量を利用した上段からの唐竹割り。――完璧な包囲殲滅陣形)


普通であれば、絶望に足を竦ませる局面。

しかし、ヴェルトの脳細胞は、まるで精密な歯車が噛み合うように、冷徹な思考速度クロックを跳ね上げていく。彼にとって、戦闘とは情熱のぶつかり合いでも、命のギャンブルでもない。ただの、物理法則の最適化コントロールだ。


(……前世の記憶の最深部にある、あの『理合』を展開する。

腰の回転を始点とし、骨盤をわずかに傾斜。地面からの作用反作用リアクションフォースを極限まで刀身へ同調させる。この世界の、腕力に頼った叩き斬る剣士の動体視力では――私の初動ファースト・ムーブを捉えることは論理的に不可能)


シュル、と、夜の闇に静かな摩擦音が溶けた。

ヴェルトが腰に下げた安物剣の、擦り切れた柄に右手をかけた瞬間、世界が完全な静止スローモーションへと陥る。


「が、は……っ!?」


最初に悲鳴を上げたのは、左側から影のように踏み込んできた暗殺者だった。

彼は、自分がなぜ斬られたのかすら理解していなかった。

ヴェルトがすれ違いざまに放った、目にも留まらぬ速さの『逆袈裟さかげさ』の一撃。それは、男の革鎧のわずかな継ぎ目――左脇腹から鎖骨の下にかけてを、一ミリの狂いもなく正確に切り裂いていた。薄く鋭い刃は肉を断ち、男は持っていた短剣を石畳に落とすと、そのまま糸が切れた人形のように崩れ落ちた。


「なっ……!? 速すき――」


右側の暗殺者が驚愕に目を剥き、攻撃軌道を修正しようとした時には、すでに全ての計算が終了していた。

ヴェルトは流れるような重心移動で刃を翻し、踏み込んできた男の手首へと、剣の『柄頭つかがしら』を正確に叩き込んだ。

ゴキリ、と鈍い骨折音が響き、男の短剣が夜空へと高く舞い上がる。さらに、体勢を崩した男の鳩尾みぞおちへ、容赦のない硬質な蹴りが叩き込まれた。男はレンガの壁へと激しく激突し、脳震盪を起こしてそのまま意識を失った。


わずか、二秒。


残されたガロンは、大剣を上段に振り上げた姿勢のまま、完全に石化していた。

「ひ、う……あ、ありえねえ……。お前、ただの、記録者じゃ……」

大男の額から、滝のような冷や汗が流れ落ち、顎がガタガタと音を立てて震え出す。彼の目の前にいる若者は、昼間の華奢な旅人などではない。底の割れない、圧倒的な『死』そのものだった。


ヴェルトは、血の一滴すら付着していない刀身を静かに返し、ガロンの喉元からわずか一ミリの位置へと、その切っ先を突きつけた。


「言ったはずだ。形あるものを記録するのが仕事だと」

その目は、夜の深淵よりもなお深く、感情の色のない冷徹さを湛えていた。


「さて、ガロン。君を『生きたままの状態で』私のノートに記録するか、それとも『物言わぬ死体』として記録するかは、君の次の発言次第だ。……誰に頼まれて、私を襲った?」


ガロンの瞳に、圧倒的な恐怖の刻印が焼き付けられていた。

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