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第一章:酒場の奇妙な旅人(前編)

「――おい、そこの不気味な兄ちゃん。見慣れない服を着てやがるが、どこの流れ者だ?」


薄暗く、えた安酒の匂いと、男たちの安っぽい体臭が立ち込める王都の裏通り 。その一角に店を構える酒場『錆びたいかり亭』の片隅で、ヴェルトは羊皮紙のノートに静かに炭の棒を走らせていた 。


声をかけてきたのは、見るからに質の悪い硬化革ボイルドレザーの鎧をまとい、赤ら顔で濁った目を向けた大男だった。

男の腰には、ろくに研ぎ澄まされてもいない、刃こぼれだらけの無骨な大剣がぶら下がっている。革の鞘は油が切れてひび割れ、柄に巻き付けられた麻紐は黒ずんで手垢にまみれていた。典型的な、酒の勢いで自分より弱そうな若者を捕まえては憂さ晴らしをする、三流の傭兵、あるいは落ちぶれた冒険者の類だ。


ヴェルトは手元の炭の棒を止めることなく、カリ、カリ、と羊皮紙の繊維を硬質に引っ掻く音だけを響かせながら、淡々と、しかし極めて冷徹な視線を羊皮紙に向けたまま言葉を返した。


「ただの記録者だ。世界の端から端まで、形あるものを文字に残すのが生業なりわいでね。あなたのその立派な大剣の刃こぼれの数や、その立派な赤鼻の傾斜角度も、もしお望みであれば、私のこのノートへ克明に、一ミリの狂いもなく刻んでおこう」


「あぁん? なめてんのか、ガキが……!」


大男が顔を真っ赤にして激昂し、肉厚な拳を木製の粗末なテーブルへと叩きつけた。

ドガァン、と鈍い音が響き、テーブルの上に置かれていた安物のエールが激しく波打って床へとこぼれ落ちる。周囲の席にいた他の荒くれ者たちが、面白がるようにこちらの様子を値踏みし始めた。一触即発の空気。


しかし、ヴェルトの表情には、微塵の動揺も、恐怖の兆候も現れなかった。


(――対象の身体データを測定。呼吸数、毎分三十二回。心拍数、推定百十以上。アルコールの過剰摂取により、毛細血管が拡張し、顔面の紅潮が著しい。重心は右足に偏っており、左膝の古傷をかばうような不自然な肉体の傾きがある。抜刀に至るまでの想定時間は、一・四秒。――脅威度:極めて低。論理的防衛行動カウンターの選択肢、計十四通り)


ヴェルトの脳内では、相手の骨格、筋肉の弛緩状態、視線のミリ単位の動きまでが、冷徹な数値と論理ロジックとして瞬時に弾き出されていた。

彼には、この世界の住人が誰も持たない「別の目」がある。それが前世の記憶によるものなのか、あるいはこの世界で「記録者」として目覚めた瞬間に与えられた呪いのような機能なのかは分からない。ただ、彼の目には世界のあらゆる事象が、過剰なほどに「構造的」に映るのだ。


しかし、ヴェルトの視線は、大男の構えの僅かな隙で止まった。

(――妙だな。これほど怒気を孕みながら、右手の指先はいつでも力を抜ける位置にある。本質的な殺意、あるいは踏み込む覚悟が欠落している。義務的に絡んできているかのような、奇妙な違和感だ)


「よせよ、ガロン。その兄ちゃんは、うちの貴重な上客だ」


険悪な空気を鋭く切り裂いたのは、カウンターの奥から響いた、低く枯れた声だった。

この店のマスターであり、かつては王都でも名の知られた熟練の冒険者だった隻眼の男、デックだ。彼は大きな木樽から新しいエールを注ぎ、泡を溢れさせながら、ガロンと呼ばれた大男をその片目で鋭く睨みつけた。


「ヴェルトは一週間前からこの街に滞在して、古い伝承や流派の記録を集めている。お前みたいに、昼間から無駄に元気なだけで、依頼の一本もこなせねえ木偶でくの坊とは違ってな、知的で、金払いの良い上質な客なんだよ。大人しく自分の席で泥水みたいな酒をすすってねえと、次は美味いエールじゃなく、俺の現役時代の拳を奢ってやるが?」


デックの放つ、元一流の冒険者ならではの、肌を刺すような重い威圧感プレッシャー

それに気圧されたのか、ガロンは拳を震わせながらも「チッ、気取ったインテリ野郎が」と忌々しげに吐き捨て、地面を蹴るようにして自分の席へと戻っていった。


「すまねえな、ヴェルト。王都も最近は、隣国との国境紛争の煽りを受けて、あんな食い詰めた荒くれ者が増えてやがる。治安が悪くなる一方だ」


デックがカウンターから歩み出て、溢れんばかりのエールが入った新しいグラスをヴェルトの前に置いた。


「気にしないでくれ、デック。感情の起伏が激しく、論理的な思考能力を欠いた人間を観察するのも、記録者にとっては世界を構成する良い素材サンプルだ。それよりも――」


ヴェルトは、手元のノートの端から、一枚の古びた羊皮紙を慎重に滑り出させた。

その紙片は、経年劣化によってセピア色に変色し、端がボロボロに擦り切れている。しかし、その中央に描かれた紋様だけは、奇妙なほど鮮明に、その存在感を主張していた。


三つの花びらが、幾何学的な精密さで交差する、美しくもどこか禍々しい紋様。


「これについて、何か新しい噂や、裏社会での取引情報は聞けただろうか」


デックの唯一の眼が、その紋様を捉えた瞬間、わずかに小さく収縮した。

彼は周囲の席の男たちが聞き耳を立てていないかを、油の切れたランタンのような視線で慎重に見回し、椅子の位置をヴェルトに近づけて声を潜めた。


「……『三花流さんかりゅう』、だったな。二百年前、前ヴェルナ帝国の崩壊と共に、歴史の表舞台から、まるで最初から存在しなかったかのように完全に消し去られたはずの、伝説の暗殺剣術。お前がその足跡を探しているって噂を裏のギルドに流してから、どうも街の底辺が妙にざわついてやがる。お前、本当にただの『記録』だけが目的なのか? あれは、触れちゃならねえ呪いのようなもんだぞ」


「形あるものは、いつか滅びる。それは国家であれ、剣術であれ同じだ。だが、その滅びのプロセスを、歪みなく正確に記録するのが私の存在理由だ。それがどれほど危険な、歴史の闇に隠された呪いであろうとな」


ヴェルトはエールを一口、喉へと流し込んだ。

麦の苦味と炭酸が鼻を抜けるのを感じながら、彼はどこか遠い世界を見つめるように、自らの腰に下げられた一本の剣へと右手を伸ばした。


その剣には、貴族の所有するような華美な金銀の細工も、魔導士が施すような発光する術式も一切ない。一見すると、ただの鍛冶屋の見習いが叩いて作ったような、安物の、飾り気のない鉄の塊にしか見えない代物だった。

しかし、その刀身の「反り」の角度、重心が正確に手元に集まるバランス、そして握りの位置は、この世界の人間が好む「力任せに叩き斬る」ための大剣やブロードソードとは、根本的に異なる『独自の論理』によって設計されていた。


手元に残された手記の白紙には、先ほど削り出された黒い炭の粉が、世界の不完全な輪郭をなぞるようにして冷たく定着していた。


(三花流。なぜ、その名を聞くだけで、私の記憶の底にあるシステムが、これほどまでに激しく駆動するのか。……いや、これは今世の私の感情ではない。私の中に眠る、もう一つの『ことわり』が、あの花びらの紋様に呼応しているのだ)


ヴェルトの脳裏には、前世の断片的な光景が、時折ノイズのようにフラッシュバックする。

一面に咲き誇る、淡いピンク色の桜。血によって赤黒く染まっていく、白い砂。

そして、互いの呼吸の隙を突き、一瞬で勝負を決する、極限まで無駄を削ぎ落とした一撃。

この世界の誰も知らない、だが確かに存在した異世界の孤高の剣士――『サムライ』の記憶。


「とにかく、夜道の歩行には気をつけな」

デックは立ち上がり、ヴェルトの肩をポンと叩いた。


「お前のその、平べったくて薄っぺらい安物の剣じゃ、王都の裏路地を徘徊する本物の凶刃は防げねえぞ。記録を残す前に、お前自身が物言わぬ『死体の記録』になっちまっちゃ、元も子もねえからな」


「忠告、感謝するよ。しっかりと脳内に記録しておこう」


ヴェルトは小さく、感情の読めない微笑を浮かべるだけで応え、羽ペンを片付けてノートを静かに閉じた。外は、すでに太陽が沈み、王都を濃密な夜の帳が支配し始めようとしていた。

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