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序章 花鏡の夜

二百年前、春の終わりの夜だった。


大陸中央部にそびえる連峰の中腹。そこに建てられた三花流さんかりゅうの総本山たる道場は、その夜だけ、ひどく静かだった 。


いつもなら、夜更けまで弟子たちの木剣が風を切る音が響いていた。当時の三花流は、かつての大国、旧ヴェルナ帝国の崩壊後もなお、諸国から一目置かれる最大勢力の一つ 。朝から深夜まで、誰かが剣を握り、型を繰り返している――それが当たり前の光景だった 。剣を振るうことこそが彼らの呼吸であり、生きる証明だったからだ 。


しかし今夜、広大な板張りの道場には、人っ子一人いない。


七代当主・花鏡かきょうの厳命により、数百人の弟子たちは全員、夕刻までに下山させられていた。行き先も、目的も明かされず、ただ「今夜、ここを出ろ」とだけ告げられた弟子たちは、戸惑いながらも師の言葉に従った。大陸全土にその名を轟かせる至高の剣聖・花鏡がそう言うのなら、何か重大な理由があるのだろうと信じて。


理由はあった。ただ、生きてこの世界を歩む者には、決して言えない理由だった。


花鏡は暗がりの中、道場の中央に静座していた。両膝をそろえ、背を厳かに伸ばし、枯れ木のような両手を膝に置いている。歴代当主が受け継いできた名刀は傍らにあるが、抜かれてはいない。もはや、抜く必要がなかった。


老剣聖は静かに目を閉じていた。

しかし、眠ってはいない。彼には、見えていた。


ずっと前から、見えすぎていたのだ。――この国の空気が、ひどく歪んでいることが。


一般の人間には知る由もないが、世界には目に見えない「流れ」が存在する。川の水が海へ向かい、風が気圧の隙間を埋めるように、世界の命運にも確固たる大流がある。だが、その流れは今から三十年前、ヴェルナ帝国が隣国との大戦を引き起こした頃から、少しずつ、しかし致命的に狂い始めていた。


三花流の剣士とは、ただ敵を斬るだけのともがらではない。極限まで研ぎ澄まされたその剣は、空間の、そして世界の「歪み」を敏感に察知するアンテナでもあった。


修行の初期段階では、それはごく小さな違和感に過ぎない。型を繰り出す際、空気の密度がわずかに変わるような感覚。だが、修練を重ねて『達人』の域に達すれば、戦場において敵の殺気の拠って立つ場所が読めるようになり、さらにその先――『極致』へと至れば、一国の軍勢の動き、歴史の潮目の変わり目すらも、剣を通じて網膜に焼き付けることができるようになる。


そして今の花鏡には、国の興亡などよりも、もっと巨大で、おぞましいものが見えていた。


「師匠」


静寂を引き裂き、一人の若者が声をかけた。

全員を下山させたはずの道場に、たった一人、影のように残っていた男。名をソルといった。一番若い弟子であり、花鏡の技術を最も愚直に吸収した、一番頑固な男でもあった。


「本当に……すべてを燃やすのですか」


花鏡は目を開けなかった。

「燃やす」


「ですが、ここには三花流の百年の歴史が、歴代の先達が積み上げてきた型の記録や口伝のすべてがあるのです! これを失えば、我が流派の灯は完全に途絶えてしまう……!」


「だからこそ、燃やすのだ。ソル」


花鏡はゆっくりと目を開けた。

窓から差し込む青白い月光の中、老人の双眸だけが、夜の獣のように妖しく、深い光を湛えていた。それは、世界の深淵を覗き込み続けてきた者だけが持つ、孤独な目だった。


「お前は最後の弟子だ。お前にだけは、真実を話しておく。……三花流の剣は、世界の歪みを感知する。そこまでは知っているな」


「はい。剣を通じて空間の乱れを知り、敵の先手を打つ。それが我が流派の理合りあいです」


「では、その力をさらに極め、剣術を『完成』させた時、何が起きると思う?」


花鏡の声は、どこまでも平坦で、冷冷としていた。


「歪みを感知するのではない。研ぎ澄まされすぎた三花流の刃は……世界の歪みを『操作』できるようになる。それこそが、この流派の創始者が目指し、俺がたどり着いてしまった完成形だ」


ソルが、小さく息を呑む音が聞こえた。

「歪みを、操る……? そんなことが出来れば、一国の軍隊はおろか、世界の理さえも……」


「そうだ。だが、世界は壊れる」

花鏡は遮るように言った。


「歪みとは、人間ごときが弄んでいいものではない。大河の流れを強引に堰き止めれば、いつか必ず土手は決壊する。同じように、個人の剣によって世界の歪みを都合よく操作しようとすれば、世界そのものが『決壊』し、崩壊するのだ。それは剣の領域ではない。ただの天災だ」


沈黙が、重く道場に降り積もる。

夜風が山肌を叩き、道場の隅に置かれた松明の炎が、不吉に揺らめいた。


「しかし……!」ソルは拳を握りしめ、食い下がった。「師匠はあと一歩でその型を完成させられる。なぜ、ここまで来て……」


「わかっていたさ。だが、止められなかった」

花鏡の唇から、自嘲気味な吐息が漏れた。


「剣士というのは悲しい生き物だ。一度始めてしまえば、より高みへ、より奥へと進んでしまう。その先に破滅の終わりが見えていても、自分の足で止まることはできない。……だからこそ、今夜、強制的に止める」


老剣聖は、ゆっくりと立ち上がった。

その動作には一切の無駄がなく、老齢とは思えないほど滑らかだった。彼は傍らの名刀を手に取ると、道場の壁際に整然と積まれた膨大な巻物を見つめた。百年以上の歳月、何千人もの剣士たちの汗と血によって編み上げられた三花流のすべてが、そこにあった。


「記録を燃やし、型を歴史の闇に葬る。俺もここで消える。弟子たちには、それぞれ剣を捨て、農夫や職人として別の場所で生きるよう手配した。三花流の名は、明日を限りにこの世から消滅する」


「消えて、いいのですか。私たちの生きた証が……」


「消えていい。……ただし」


花鏡は、己の手にある剣の柄を見つめた。そこには、三枚の花びらが交差する、美しくも禍々しい紋様が刻まれている。


「この一本の剣だけは、残す。そして、麓の祠へ厳重に封印する。なぜか分かるか?」


ソルはただ、悲痛な表情で首を振ることしかできなかった。


「型は消せる。記録も灰にできる。だがな、ソル……世界に生じる『歪み』そのものは、決して消せないのだ。世界が存続する限り、歪みは蓄積し続ける。そしていつか、その歪みが限界を迎え、世界を飲み込もうとする時が来る。その時、誰かが再び、その歪みと向き合わねばならん」


「では、その剣を残すのは……」


「合図だ。この滅びた剣の、その先(続き)を委ねる者への、たった一つの合図だ」


ソルは長い間、言葉を失っていた。涙が、彼の頬を伝って床に落ちた。

「……その者は、本当に現れるのですか」


「来る」

花鏡の言葉に、微塵の迷いもなかった。


「俺の目には、遠い未来が見えている。……いつか、この世界の人間ではない、別の世界の記憶を持つ者が、この剣を見つける。その時まで、この剣はただ静かに時を待つ」


「別の世界の記憶を持つ者……? それは、一体どのような……」


「この世界の理の外側にいる者だ。歪みの中に囚われている住人には、自分が歪んでいることすら自覚できない。外の視点――全く異なる世界の論理を持つ者だけが、この世界の歪みを正確に観測し、正すことができるのだ」


花鏡は一本の松明を手に取り、炎を見つめた。

「行け、ソル。お前も下山しろ。師の最期を見る必要はない」


ソルは唇を噛み締め、深く一礼すると、道場の入口へと歩き出した。そして、重い木扉に手をかけた瞬間、最後に一度だけ振り返った。


「師匠。……もし、その『続きを委ねる者』が未来に現れた時、その者に、何を伝えますか」


花鏡は、山と積まれた巻物に松明の火を近づけながら、振り返らずに答えた。


「――続きを書くかどうかは、お前が決めることだ、と」


次の瞬間、激しい爆発音とともに紅蓮の炎が巻き起こった。


ソルは山道を駆け下りた。二度と振り返らなかった。しかし、百年を誇る名門道場が焼け落ちていく凄まじい落雷のような音は、山を下りきるまで、ずっと彼の背中を追いかけてきた。


その音が完全に消え去り、夜の静寂が戻ってきた頃、東の空がうっすらと白み始めた 。

新たなる朝の光とともに、旧帝国の歴史の狭間から――『三花流』という最強にして最悪の剣術の記録は、完全に消失した 。

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