第三章:残された足跡(前半)
廃村の礼拝堂を満たしていた埃の粒子が、崩落した天井から差し込む光の束の中で、ゆっくりと円を描いて降下していく。
ガロンが叩き潰した魔導守護兵の、破砕された石材の隙間から、それらを繋ぎ止めていた淡いマナの光が不規則な瞬きを繰り返しながら、やがて完全に消失した。周囲には、急激に元の調和へと引き戻されるかのような、神聖ヴェナ教国特有の、音量を制限された粘りつくような静寂が再び満ち始めていた。
ヴェルトは、腰の安物の鉄剣から右手を離した。
彼の肉体の運動神経細胞を狂わせるように駆け巡っていた、二百年前の『三花流の残響』が、急速に引いていく。外界の魔法を魂の表面で冷徹に遮断する「無響の体」が、再び本来の孤立した沈黙を取り戻す。
ドクン、と、心臓が最後の一振りを終え、平常の脈動へと戻る。
「……ヴェルト、ご無事ですか」
アルテアの声が、静寂の底を震わせるように届いた。
彼女の持つ細身の魔導レイピアの刃は、既に青白い光を失い、洗練された銀細工の鞘へと音もなく収まっていた。その丁寧な声音には、緊迫した戦闘の余韻とともに、ヴェルトの異様な「剣術の感知」に対する驚きが率直に混じっていた。
「問題ない」
ヴェルトの声は、短く、そして乾いていた。
彼は直接的な感情を一切表に出すことなく、右脇腹の衣服の上から、傷口の具合を確かめるようにそっと触れた。先ほどの鋭い動作の余波により、いまだに塞がりきらない裂傷がじはじはと熱い痛みを脳へと送り続けている。
「無響の体」は、敵の戦闘魔法を無効化する強力な盾であると同時に、世界のあらゆる奇跡から彼を切り離す呪いでもあった。
肉体の結合を劇的に促す教国の治癒魔法も、彼の皮膚に触れた瞬間に単なるノイズとして霧散する。ゆえに、この傷はただ普通の人間と同じ速度で、生物学的な細胞の修復を待つしかない。極寒の地での無理な運動は、そのまま傷口の壊死や感染症という致命的なリスクを跳ね上げる。その緊迫感が、彼の思考を常に鋭く、張り詰めたものにしていた。
「おい、ガキ。今のは何だ。お前、剣が使えるのか」
ガロンが、煤けた黒い鉄の大剣を肩に担ぎ直しながら、濁った目を向けた。
布の一枚すら巻かれていない、質量十二キログラムの純粋な鉄の塊。装飾を一切排したその大剣は、ただそこに存在するだけで、周囲の空間の質量を歪めるかのような圧倒的な存在感を放っていた。
ガロンは多くを語らない。だが、彼の裏社会で培われた戦術眼は、魔法を一切持たないはずのヴェルトが、先ほど魔導守護兵の攻撃に対して見せた「ミリ単位の狂いもない肉体の最適化」が、尋常の技術ではないことを見抜いていた。
「私が使ったのは剣術ではない。ただの構造の把握だ」
ヴェルトは冷徹に答え、それ以上の説明を拒絶するように、床に転がっていた手記と炭の棒を拾い上げた。
カリ、カリ、と、炭の微粒子が粗末な再生紙を引っ掻く硬質な音が、崩壊した礼拝堂に小さく響く。
――教国守護兵の破壊、完了。
――戦闘行動時、周辺の感知網に一時的なマナの空白が発生。
――三花流『第二の型』の刻印は、何者かによって意図的に削り取られている。
ヴェルトの観察眼は、苔を剥ぎ取った石板の表面に注がれていた。
そこには、三枚の花びらが重なる三花流の印が刻まれていたが、その中央、最も核心となるべき術理の軌跡(文字)が、鋭利なノイズによってガリガリと執拗に削り取られていたのだ。線の深さや、周囲の風化具合から見て、これはごく最近の仕業ではない。
(二百年前。あるいは、それ以降にこの国が歴史を書き換えた時か)
歴史学者としての前世の記憶が、その構造的な意図を告げていた。
この世界は、かつて大陸を統一していた『ヴェルナ帝国』が崩壊した後、五つの国家が拮抗する形で成り立っている。だが、その平和(調和)を維持するために、各国は不都合な歴史、特に「世界を読む力」を持っていた三花流の存在を、徹底的に記録の表舞台から消去してきた。
その上書きされた歴史の、最も分厚い層が、この神聖ヴェナ教国なのだ。
「……私の先祖がここへ残したはずの手記の断片も、失われているようです」
アルテアが祭壇の裏側の、隠し空洞になっていた石組みを覗き込みながら、寂しげに呟いた。
彼女の白い指先が、空っぽの木箱の底に触れる。箱の周囲には、レイナード家固有の魔導インフラの残滓がかすかに感じられたが、中身はとっくに持ち去られた後だった。
「いや、完全に消し去ることはできない」
ヴェルトは手記をホルダーへと差し込み、立ち上がった。
「歴史とは、常に古い基礎の上に成り立つ構造物だ。どれほど表面を削り、新しい秩序を塗り固めようとも、その底にある巨石の配置までは変えられない。奴らがここを封鎖し、守護兵を配置したこと自体が、この奥にまだ『消し残したもの』があるという証明だ」
「消し残したもの、ですか」
アルテアがゆっくりとヴェルトを見つめた。旅が進むにつれ、彼女の瞳からはかつての貴族としての迷いが消え、代わりに自らの家系が犯した「血の罪」の真実を見届けるという、率直で強固な意志が宿り始めていた。
「ああ。この礼拝堂の地下構造。基礎部分の石の噛み合わせが、街の国境門と同じだ。帝国以前の古い遺跡を流用している。そして、そのマナの流動は、このさらに奥――教国の内国へと繋がっている」
「行くのか、ガキ。この先は神殿の目が一段と厳しくなるぞ」
ガロンが低く警告した。言ったことは必ず守る男だが、それゆえに無謀な死地へ飛び込むことの愚を、誰よりも知っている。
「行く。記録が必要だ」
ヴェルトは短く断定し、迷うことなく廃村の奥へと歩みを進めた。
━
山道を下り、再び教国の管理下にある第二の街へと近づくにつれ、世界の「抑えられた音量」はさらにその度合いを増していった。
街道の両側に整然と並ぶ、過度な装飾を排した灰白色の建物。
行き交う人々は、まるですべての行動を一つの規格でプログラミングされているかのように、等間隔の歩調で、視線を落として歩いている。誰一人として大声を出す者はなく、馬車の車輪の軋み音すらも、車軸に施された特殊な減音魔法によって、こすれるような微かな音へと還元されていた。
国家という巨大な機構が、魔法という道具のインフラを完全に握り潰し、人々の内面の調和にまでその触手を伸ばしている。その息苦しいほどの静寂が、街の隅々にまで完璧に機能していた。
街の中央広場には、巨大な白い祈念碑がそびえ立っていた。
その表面には、空間を満たすマナの歪みを常に監視する、精緻な術式が刻まれている。もしここで未登録の高度な魔法――あるいは三花流のような「世界を読む力」が駆動すれば、術式は一瞬にしてその根源を検知し、神殿の執行官たちを呼び寄せるだろう。
ヴェルトたちは、その監視の目の下を、ただの「旅の記録者と護衛」として静かに通り過ぎていく。
カリ、カリ。
ヴェルトの指先だけが、歩行の振動に合わせて動き、手記に新たな事実を刻んでいく。この不自然な調和の奥で、世界が隠し持っている「致命的な歪み」。二百年前に剣聖・花鏡が第三の型を完成させる直前、すべてを中断して流派を封印せざるを得なかった、その本当の理由。
(その答えは、この歴史の底に必ず埋もれている)
前世で解けなかった謎への執念が、ヴェルトの冷徹な瞳の奥で、消えることのない硬質な炎となって燃え続けていた。
「……おい、止まれ」
不意に、前方を歩いていたガロンが、担いだ大剣の鞘(実際には布のない剥き出しの鉄だが)をわずかに傾け、二人の前へその太い腕を突き出した。
「どうした、ガロン」
アルテアが、魔導レイピアの柄に手をかけながら声を潜める。
「――神殿の犬どもの気配だ。それも、さっきの石像とは比べものにならねえ、本物の血の匂いがする」
ガロンの濁った眼光が、整然とした街路の先、白い祈念碑の影から音もなく姿を現した、灰色の法衣をまとった一団へと注がれた。彼らの胸元には、教国の最高管理権を象徴する、厳格な紋章が刻まれた銀の胸当てが、冷たい光を反射していた。
神聖ヴェナ教国・神殿執行官。
国家の秩序を乱す「歴史のノイズ」を排除するためだけに訓練された、その冷徹な集団が、三人の行く手を阻むように、静かにその歩調を合わせて近づいてきていた。
空間の静寂が、さらに一段と、張り詰めたものへと変わっていく。
ヴェルトは手記を静かに閉じ、脇腹の痛みを完全に思考の彼方へと追いやると、ただ冷徹に、迫り来る敵の構造を読み解くためにその視線を向けた。




