第二章:国境の門(後半)
神聖ヴェナ教国の石畳は、どこまでも白く、そして乾いていた。
区画整理された美しい街路を進むにつれ、ヴェルトたちの耳に届く音はますますその密度を減少させていった。すれ違う住民の誰もが、灰白色の修道衣を思わせる質素な衣服をまとい、視線をわずかに落として歩いている。
この国において、魔法は「奇跡」ではない。中央神殿という巨大な統治機構によってすべての階梯、すべての術式が許認可制で縛られた、最も厳格な「管理対象」だった。
街の辻々に設置された、祈念碑を模した片岩の魔道具。それが、空間を満たす微細なマナの揺らぎを、網の目のように常に監視している。未登録の魔法が発動した瞬間に、術の根源たるマナを強引に絞殺する。その強制的な調和のインフラが、この国からあらゆる雑音を剥ぎ取り、異様な静寂を均一に塗り込めていた。
ヴェルトは、歩調を一定に保ったまま、指先に挟んだ炭の棒を膝の上の手記へと滑らせた。
カリ、カリ、と、紙の繊維を削る硬質な音が、この音量を制限された街路において、驚くほど生々しく響く。
――教国内部、第一層の観察。
――感知用魔道具の配置間隔、約五十メートル。
――マナの流動が不自然なほど直線的。
「……気持ちの悪い静けさだな。死人の街を歩いてるみたいだ」
ガロンが、肩に担いだ煤けた黒い鉄の大剣の位置をわずかに変えながら、吐き捨てるように呟いた。
布の一枚すら巻かれていない、質量十二キログラムに達する圧倒的な鉄の塊。装飾や美の概念を完全に排し、ただ「物理的な破壊」のためだけに鍛え上げられたその凶器は、整然とした教国の街並みの中で、剥き出しの異物として周囲の視線を集めていた。だが、臨時傭兵の登録手形が彼の腰の革帯に下がっている限り、教国の役人もそれを咎めることはできない。
ガロンは多くを語らない。だが、一度その「記録」の旅を守ると言った以上、その約束は守る。その本音だけの佇まいが、この人為的な調和に満ちた国において、唯一の確かさだった。
「……静かに、ガロン。ここでは壁の石一つひとつが神殿の耳だと思ってください」
アルテア・レイナードが、わずかに声を潜めて制した。
彼女の腰にある細身の魔導レイピアは、その洗練された銀細工の鞘に収まり、彼女の歩調に合わせてかすかな金属音を立てていた。二百年前に最強の暗殺剣術『三花流』を歴史から消し去り、改ざんされた歴史の歪みの上に成り立つ伯爵家。その長女としての「血の罪」が、旅を重ね、教国の最奥へ近づくにつれて、彼女の率直な言葉の中に重い影を落としていた。
「アルテア。君の家系が隠蔽した手記の記述、その『第二の型』の足跡があるという場所は、この街のどの方向だ」
ヴェルトは手記を閉じ、短く、断定的なトーンで問いかけた。
「……この街の北西、かつて帝国時代に鉱物の採掘拠点として使われ、現在は放棄された廃村です」
アルテアは周囲の静寂に配慮するように、視線を落としたまま答えた。
「教国が成立する以前、まだヴェルナ帝国が崩拠して間もない群雄割拠の時代に、当時のレイナード家が三花流の記録を分散して埋めた場所の一つ。神殿の監視網が敷かれるより古い、歴史の底に沈んだ礼拝堂の跡地のはずです」
「なら、行く。記録者として、その真実をこの目で確認するために」
ヴェルトはそう言うと、わずかに痛む右脇腹の傷を表情に出さぬまま、歩幅を広げた。
彼の「無響の体」は、外界のあらゆる魔法をその皮膚の表面で冷徹に遮断する。神聖ヴェナ教国が張り巡らせた感知網の波動も、彼の魂に触れた瞬間に等しく無効化され、霧散していく。
だが、それはあらゆる奇跡の拒絶を意味していた。肉体を劇的に繋ぎ合わせる治癒魔法も、彼の身体にとっては単なる「排除すべき外界のノイズ」に過ぎない。王都での激闘で負った深手は、今なお、前世の人間と全く同じ速度で、じくじくと生物学的な新陳代謝だけを頼りに塞がるのを待つしかなかった。魔法に依存したこの世界において、その治癒の遅さは、常に死線と隣り合わせの緊迫感を伴っていた。
━
街の喧騒――と呼ぶにはあまりにも静かな居住区を抜け、一行は北西の山林へと入っていった。
教国の管理が行き届いているのは、石畳が敷設された中央の街道までだった。山道に入ると、道は一気に荒れ、露出した泥と、かつての帝国全盛期に築かれたであろう古い排水遺構の石組みが、崩れたまま放置されているのが見えた。
歴史の積み重なり。古い基礎の上に、ただ今の国家の都合だけが上書きされている構造が、ここでも剥き出しになっていた。
数時間の歩行の末、霧が薄く立ち込める斜面の向こうに、その「廃村」は姿を現した。
家々の屋根はとっくに朽ち落ち、基礎の石積みだけが、かつてそこに人間の営みがあったことを証明するように、墓標のように並んでいる。村の中央には、現在の教国様式とは異なる、帝国の直線的で冷酷な土木技術で建てられた石造りの礼拝堂が、半分崩落した状態で佇んでいた。
建物の壁面には、深い苔がへばりつき、かつての精緻な浮き彫りを覆い隠している。
ヴェルトは礼拝堂の割れた木の扉をくぐり、内部へと足を踏み入れた。
頭上からは、崩落した天井の隙間から、細い光の束が何本も斜めに差し込み、空気中に浮遊する埃の粒子を白く照らし出している。外界の魔導感知網の気配も、この古い石の壁の奥までは届いていない。世界から完全に切り離された、本当の無響の空間。
奥の祭壇。その手前に、大きな石板が横たわっていた。
「これ、です……」
アルテアが近づき、石板の表面の苔を、手袋をはめた手で慎重に拭い去った。
現れたのは、衣服の擦れるような音すら立てずに咲き誇る、三枚の花びらが重なった紋様。
『三花流』の刻印だった。
ヴェルトは石板の前に膝をつき、再び手記を取り出した。万年筆の先を走らせる。
だが、彼の歴史学者としての目は、石板の表面に刻まれた不自然な「傷」を見逃さなかった。
(――線の深さ、約二ミリ。刃の侵入角度、左斜め上から三十五度。これは、単なる紋様の彫刻ではない。剣を振るい、その軌跡によって文字を刻み込んだ痕跡だ)
前世の中世剣術史のあらゆる理合が、ヴェルトの脳内で瞬時に組み上がっていく。
この石板に刻まれているのは、二つの異なる力の衝突の記録だ。一つは、二百年前にこの地で剣を振るった三花流の剣士。そしてもう一つは、それを「消去」しようとした者たちの力。
「……誰かが、ここを荒らした形跡があるな」
背後で、ガロンが低く呟いた。
彼の手は、すでに肩の大剣の柄へと伸びている。
「ガロン、何か見えたか」
ヴェルトは手記を閉じ、立ち上がりながら問うた。
「風の音が変わった。……人間じゃねえ。魔法で動く、デカい塊だ」
ガロンの言葉通り、礼拝堂の奥、暗い地下へと続く階段の向こうから、不気味な地鳴りのような音が響き始めていた。
それは、神聖ヴェナ教国がこの廃村を封鎖する際、古い歴史の遺留物を外へ漏らさないために配置した、自律型の魔導守護兵の駆動音だった。
ズズ、ズズ、と、石を削るような音が近づいてくる。
暗闇の中から現れたのは、複数の石材を魔法の力で強引に繋ぎ合わせた、歪な人型の石像だった。その中心核には、教国の刻印が押された、怪しく明滅する魔石が埋め込まれている。
「教国の守護兵……! まだ機能していたのね」
アルテアが魔導レイピアを抜き放った。刃の表面を、かすかなマナの共鳴音が鳴り響く。
「アルテア、下がれ。魔法ベースの攻撃は、あの石像の表面で拡散される。物理的な質量で、構造ごと叩き潰す必要がある」
ヴェルトは冷徹に状況を分析し、指示を出した。
「……オレの出番だな」
ガロンが前に出た。
質量十二キログラムの、煤けた黒い鉄の大剣が、礼拝堂の低い天井に擦れ、ガガ、と火花を散らす。
大男の太い腕の筋肉が、爆発的な膨張を見せた。
彼には高度な魔法など使えない。だが、ただ純粋に、一振りの鉄を限界まで速く、重く振るうという一点において、彼は他の追随を許さない。
「ふんっ!」
短い呼気とともに、大剣が横一文字に払われた。
空気が爆ぜるような、凄まじい風圧。
次の瞬間、ガロンの大剣は、魔導守護兵の強固な石の胴体へと、いささかの躊躇もなく叩きつけられた。
硬質な破壊音が、礼拝堂の静寂を完全に打ち砕いた。
石像の胴体から、無数の亀裂が走り、繋ぎ止めていた魔法の光が激しく明滅する。ガロンの質量攻撃は、教国の魔導技術が施された外殻を、力任せに粉砕したのだ。
しかし、守護兵もまた、一歩も退かずにその太い石の腕を振り下ろしてきた。
ターゲットは、前線で大剣を振り抜いたばかりのガロン――ではなく、その背後で静かにすべてを「記録」している、ヴェルトだった。
「ヴェルト!」
アルテアの悲鳴のような声。
ヴェルトは動かなかった。彼の瞳には、迫り来る石の拳の軌道、その速度、そして自らの脇腹の傷による運動能力の低下が、すべて冷徹な計算式となって写し出されていた。
(想定時間、〇・八秒。無響の体により、拳に纏う戦闘魔法は無効化できる。だが、物理的な突進(質量)は相殺できない。……ならば)
ヴェルトは、腰に下げた飾りのない安物の鉄剣の柄へ、静かに右手をかけた。
その瞬間だった。
ドクン、と。
ヴェルトの心臓が、これまでにない異常な脈動を刻んだ。
前世の記憶――中世剣術史を研究し尽くし、あらゆる理合を構造として脳内に蓄積していた歴史学者としての魂が、彼の肉体の運動神経細胞と、狂ったように同調を始めたのだ。
「――っ」
ヴェルトの意思とは無関係に、彼の右腕の筋肉が、ミリ単位の精度で不自然に収縮を開始した。
「無響の体」が、空間に残留していた二百年前の『三花流の残響』を、外界の魔法を遮断するその魂のフィルターを通じて、ダイレクトに受信している。
未来予知ではない。
かつてこの地で、世界を救うために剣を止めた花鏡たちの、滅びた剣の、続きの残響。
シュル。
静かで、しかし凍り付くほど冷たい摩擦音が、廃墟と化した礼拝堂の中に、確かに響き渡った。




