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第二章:国境の門(前編)

翌朝、世界の輪郭が薄明の光の中に浮かび上がる頃、一行は神聖ヴェナ教国の国境へと到達した。


眼前に立ち塞がるのは、周囲の荒涼とした岩肌を圧するほどに巨大な、純白に近い片岩で築かれた石造りの国境門だった。門の上部アーチには、教国の権威を象徴する複雑な宗教的紋様が深く刻み込まれており、その溝には長年の微細な塵と、かすかなマナの残滓が煤のように沈着している。門の下には、入国を待つ少数の旅人や商人の行列が、長く伸びる影のように静かに並んでいた。


二人の門番が、鉄製の硬質な胸当てを軋ませながら、通過する者たちの荷物と割当手形(書類)を冷徹な手つきで確認している。


ヴェルト、アルテア、ガロンの三人は、その短い列の最後尾へと静かに身を置いた。

高地特有の、冷たく乾燥した風が門の狭窄部を吹き抜けるたび、人々の衣服がバタバタと乾いた音を立てる。だが、その音以外に、列からは不自然なほど話し声が聞こえなかった。


「……緊張するな」


ガロンが、低く濁った声で呟いた。

声そのものにはいささかの動揺も混じっていなかったが、彼の太い右指は、無意識のうちに肩に担いだ大剣の柄へと触れていた。長年、裏社会の死線を潜り抜けてきた傭兵としての、身体に染みついた微細な防衛の習慣だった。


布の一枚すら巻かれていない、煤けた黒い鉄の塊。装飾の一切を削ぎ落とし、ただ質量による破壊のみを追求した十二キログラムの鉄。それが放つ圧倒的な異質さは、この厳格な国境の空気の中で、隠しようもなく周囲の視線を集めていた。


「ガロン、その大剣は目立ちます」


アルテアが、わずかに声を潜めて告げた。

彼女の腰にある魔導レイピアは、洗練された貴族の護身具として鞘に収まり、教国の役人の目にも「身分ある者の装飾」として映るだろう。しかし、ガロンのそれはあまりにも純粋な暴力の記号そのものだった。


「俺の商売道具だ」


ガロンの返答は短く、本音だった。彼にとって、その鉄の質量だけがこの世界で唯一信頼できる足場であり、それを手放すことは自らの存在理由を捨てることに等しかった。


「教国では、許可のない武器の携行は厳しく制限されています。ですが、ここで臨時の傭兵として登録の手続きをすれば、護衛用の兵装として認められます」


アルテアの言葉は丁寧だが、かつて三花流の記録を隠蔽し、周辺諸国の法規や歴史の裏側に通じてきたレイナード家の長女としての確かな知見が覗いていた。


「じゃあそうする」


ガロンは短く応じ、それ以上は口を閉ざした。


ヴェルトは、二人の短い交換を背中で聞きながら、一歩ずつ進む列の合間に、自らの視線を門の「構造」へと注ぎ込んでいた。

右手の指先には、常に携帯している炭の棒が握られている。膝の上の手記を開くことはしなかったが、彼の歴史学者としての観察眼は、その巨大な石門が持つ、歴史の二重構造を瞬時に看破していた。


門を構成する上部の白い石積みは、王都やガランの他の地域でも見られない、神聖ヴェナ教国が独自に発展させた比較的近代の建築様式だ。しかし、その巨大な重量を底から支えている基礎の部分――地面に深く埋め込まれた黒ずんだ巨石の並びだけは、明らかに異なっていた。


接合面に施された、寸分の隙間もない直線的な噛み合わせ。それは三百年前、大陸のすべてを統治していた『ヴェルナ帝国』全盛期、あるいはそれ以前の高度な土木技術によって据えられた基盤そのものだった。


(この国もまた、古いものの上に成り立っている)


ヴェルトは、脳内の年表にその事実を冷徹に書き加えていく。

魔法が当たり前の道具として普及し、人々が中央の神殿による統制を当然のものとして受け入れているこの教国であれ、その足元を支えているのは、過去の巨大な歴史の遺骸なのだ。歴史は消え去らない。ただ、新しい意図によって上書きされているに過ぎない。


列が動き、三人の番が来た。


門番の鋭い視線が、三人の旅装をなぞる。

ヴェルトは自らを世界のあらゆる事象を書き留める「記録者」として申告し、アルテアは古い石碑や建築を紐解く「学術調査者」としての書類を提示した。そしてガロンは、アルテアの助言通り、その調査に付き従う「護衛傭兵」としての手続きをその場で済ませた。


「無響の体」を持つヴェルトの皮膚は、国境の障壁に仕込まれた感知用マナの波動を完全に遮断していたが、彼が魔法を発動していない以上、魔道具が不審な警告音を鳴らすことはなかった。治癒魔法すら拒絶する彼の右脇腹の傷が、歩行の振動でじくじくと熱い痛みを訴えていたが、ヴェルトはその緊迫感を微塵も表情に出さず、ただ淡々と入国の手続きを完了させた。


書類の確認が終わり、鉄格子の重い門扉が、ギィ、と軋んだ音を立てて開く。

問題なく、通過した。



門をくぐり、神聖ヴェナ教国の領内へと一歩を踏み入れた瞬間、世界の「音量」が一段階、明確に引き下げられた。


眼前に広がっていたのは、驚くほど整然と区画された、玄武岩の石畳が続く広い通りだった。通りの両側には、過度な装飾を排した、しかし塵一つ落ちていない清潔な石造りの建物が寸分の狂いもなく並んでいる。


街は、異様なほどに静まり返っていた。


人がいないわけではない。それどころか、街道には物資を運ぶ馬車や、買い出しに向かう住民たちの姿が数多く行き交っていた。それにもかかわらず、耳に届く音の密度が圧倒的に薄いのだ。


すれ違う人々の間に、声を大きく張り上げて笑う者や、怒号を飛ばす商人は一人もいなかった。全員が、自らの足音や衣服の擦れる音すらも周囲の空間に配慮するかのように、どこか抑えた、統制された動き方で行き先へと足を運んでいる。


国家という巨大な機構が、魔法という道具の管理を通じて、人間の内面や生活の調和コントロールにまでその触手を伸ばしている。その息苦しいほどの静寂が、街全体のインフラとして完璧に機能していた。


外界のあらゆる魔法の駆動音を魂の表面で遮断する「無響の体」のヴェルトにとって、この教国の静寂は、ある種、馴染み深いものであり、同時に極めて人工的な不自然さを孕んだものとして感じられた。


ヴェルトは再び、手記へと炭の棒を走らせ始めた。

カリ、カリ、と、紙の表面を擦る硬質な音が、この抑えられた静寂の街路において、驚くほど明瞭に響き渡る。


――神聖ヴェナ教国、第一の街。

――マナの流動は中央の管理下にあり、ノイズの発生は極限まで抑止されている。

――住民の行動様式に、一連の構造的統制を確認。


「……息が詰まる街だな」


ガロンが、肩の大剣の位置をわずかに変えながら、不機嫌そうに呟いた。言葉は少なかったが、その本音には、裏社会の混沌を生きてきた男としての率直な拒絶反応が示されていた。


「これが、神の秩序の恩恵とされているものです。ここでは、すべての調和が義務付けられている」


アルテアが、自らの魔導レイピアの鞘に静かに手を添えたまま言った。彼女の率直な言葉にも、この国が持つ異様な空気への警戒が滲んでいる。


ヴェルトは手記から目を離さず、ただ前を見据えて一定の歩調で歩き続けた。

この静寂の奥に、二百年前に歴史の表舞台から消し去られた『三花流』の、第二の足跡が眠っている。その歪みを、この手記に正しく縛り付けるまで、記録者の歩みが止まることはなかった。

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