第一章:廃墟の城塞(後編)
冷たい秋の雨は、彼らがガランの山の尾根を越える寸前に、ついにその牙を剥いた。
みぞれ混じりの鋭い水滴が、斜面の下方から吹き上げる烈風に乗って、ヴェルトたちの横顔を容赦なく叩きつける。視界は十メートル先すらも白く霞み、足元の花崗岩は雨水と極低温によって、一歩間違えれば滑落死を招く滑らかな凶器へと変貌していた。
しかし、ヴェルトの歩調は、その極限の悪環境のなかでも狂うことはなかった。
彼が網膜の奥で弾き出した「滑落確率を最小化する足裏の接地角」を忠実にトレースし、一糸乱れぬ等速運動を維持している。
アルテアは凍える指先で魔導レイピアの柄を固く握り締め、彼が泥と岩の上に残す微かな足跡だけを視線で追いながら、必死にその後を追随していた。過酷な登山によって彼女の純白の銀髪は濡れそぼり、紺色の旅装束の裾は飛び散った泥に汚れていたが、その瞳の奥にある意志の光だけは、灰色の世界の中で一層の輝きを増していた。
そして、三日目の昼過ぎ。
切り立った岩壁が劇的に割れ、視界が開けたその狭隘な凹地のなかに、その構造物は沈黙していた。
「――あれが、廃墟の城塞……」
アルテアの形の良い唇から、白い息とともに押し殺した声が漏れた。
山の頂近く、吹き付ける風を遮るようにして築かれたそれは、城塞というよりも、巨大な石の墓標のようだった。
外壁を構成する巨石の数々は、長年の風雨と極寒による凍結融解によって表面が爆裂し、無数のひび割れが走っている。だが、その崩落の仕方は明らかに不自然だった。自重による経年劣化の崩壊ではない。かつて何らかの強大な物理的、あるいは高密度に圧縮された魔術的なエネルギーによって、上部構造を強引に「削ぎ落とされた」かのような、滑らかで暴力的な破壊の痕跡がそこかしこに残されていた。
ヴェルトは、城塞の入り口にあたる、半ば崩落したアーチ門の前に立ち、その石の積み方を眼鏡の奥の瞳で冷徹に凝視した。
「興味深いな。この土台部分の石の切り出し方、および接合面に用いられている特異な漆喰の成分――これはヴェルナ帝国様式ではない。それよりもさらに古い時代、二百年以上前の『帝国以前』の石積み技術だ。三花流の開祖である『花鏡』は、ゼロからこの城塞を築いたのではない。歴史から放棄されていた古代の遺構をハッキングし、自らの修練場として再利用したんだ」
ヴェルトはサリ、サリ、と、濡れた羊皮紙のノートに万年筆を走らせ、客観的なデータを冷徹に記述していく。衣服が濡れることによる体温低下のリソース消費を計算に入れながらも、彼のペン先が鈍ることはない。
二人は、崩れた天井から容赦なく雨水が降り注ぐ、広大な円形の練兵場跡へと足を踏み入れた。
中央には、長年の歳月によって埃と砂が分厚く堆積した石畳。周囲の壁には、かつて武器を掛けていたであろう錆びついた鉄格子の残滓が、まるで飢えた獣の牙のように不気味に突き出ている。
「ヴェルト、見て……! あそこの奥の壁!」
アルテアが指差した先。
練兵場の最奥、ひときわ巨大な花崗岩の主壁に、それは刻まれていた。
半ば苔に覆われ、煤けてはいるものの、石の表面に刃物のようなもので鋭く刻まれた、一連の『幾何学的な図形』。
それは、人間の肉体の連動、重心の移動ベクトル、そして刃の軌道を、極限まで抽象化して並べた、三花流の『型の記録』――その石板だった。
「……三花流・第一の型『一輪』、そして第二の型『二輪』……」
アルテアが一歩、また一歩と近寄り、その図形を網膜に焼き付ける。
「でも、おかしいわ。この三枚目の石板……図形が、途中で完全に途切れている。まるで、刻むのを突然やめてしまったみたいに」
「手記の記述通りだよ」
ヴェルトは石板の前に立ち、万年筆をポケットへと収めた。
「三花流は『未完の流派』だ Fluctuations。花鏡は第三の型を完成させる直前、この世界に生じる致命的なバグ(世界の崩壊)を感知し、すべてを中断して封印した。ここにあるのは、歴史が途絶えた瞬間の、形骸(プログラムの残骸)に過ぎない」
ヴェルトは、腰に下げた飾りのない安物の鉄剣の柄へ、静かに右手をかけた。
その瞬間だった。
ドクン、と。
ヴェルトの心臓が、これまでにない異常な脈動を刻んだ。
前世の記憶――中世剣術史を研究し尽くし、あらゆる理合を構造として脳内に蓄積していた歴史学者としての魂が、彼の肉体の運動神経細胞と、狂ったように同調を始めたのだ。
「――っ」
ヴェルトの意思とは無関係に、彼の右腕の筋肉が、ミリ単位の精度で不自然に収縮を開始した。
「無響の体」が、空間に残留していた二百年前の『三花流の残響』を、外界の魔法を遮断するその魂のフィルターを通じて、ダイレクトに受信している。
未来予知ではない。これから起きることが、世界に刻む歪みの残響。
シュル。
静かで、しかし凍り付くほど冷たい摩擦音が、廃墟の静寂を震撼させた。
ヴェルトは両目を閉じてはいなかった。だが、その眼鏡の奥の瞳からは、一切の主観的な色彩が消え失せていた。
彼の肉体は、石板に刻まれた『未完の図形の続き』を、脳内の前世データベースから瞬時に演算し、最適解を出力していた。
右足の親指が濡れた石畳を捉え、骨盤が滑らかに回転し、背骨の連動が運動エネルギーを右肩へと爆発的に伝達する。
抜刀。
刃が空気を割る音すら置き去りにするほどの神速の一閃が、斜め上段へと跳ね上がった。
それは、石板に描かれていなかったはずの、失われた三花流の『続きの軌道』。
ブォォォォン!!!
鋭い風圧の輪が、ヴェルトを中心として放射状に爆発した。
練兵場の床一面に分厚く堆積していた二百年分の埃と砂が、その完璧な円運動のベクトルの衝撃によって、一糸乱れぬ綺麗な『正円の輪』を描いて一斉に吹き飛ばされた。石畳の表面が、その部分だけ鏡のように美しく露出する。
「……あ……」
アルテアは、言葉を完全に失っていた。
彼女の美しい銀髪が、ヴェルトの放った刃の残響に煽られて激しく揺れる。
目の前に立つ青年は、剣を完全に鞘へと収め、カチリと心地よい鯉口の音を響かせていた。その一連の動作には、一ミリの無駄も、一切の感情の揺らぎ(ノイズ)も存在しなかった。
「……体(筋肉)が、覚えているな」
ヴェルトはゆっくりと自らの右手を見つめ、それから再び眼鏡のブリッジを押し上げた。
「石板のデータは未完だった。だが、私の前世の記憶にある数式と、この世界のマナの残響を融合させれば、失われた『第三の型』の構造、その輪郭を論理的に復元することは可能だ」
「あなた、本当に……」
アルテアの声は、畏怖と、術式への圧倒的な信頼で震えていた。
ヴェルトは再びノートを取り出し、今の一振りが肉体に与えた負荷、および空間の歪みの変動値を、冷徹に羊皮紙へと書き留め始めた。
滅びた剣の、その誰も知り得なかった続きが、今、ガランの山奥の廃墟の底で、一人の記録者の手によって、あまりにも鮮烈に、重厚に紡ぎ始められたのだった。




