第一章:廃墟の城塞(前編)
ガランの山は、秋になるとその表情を劇的に、そして残酷に変貌させる。
麓の小さな集落の周囲では、カエデやブナの原生林が鮮やかな赤と黄色に混じり合い、街道沿いの木々が乾いた秋風に揺れるたび、まるで生命の残滓を惜しむかのようにハラハラと枯れ葉を落としていく。豊かな色彩に満ちたその光景は、旅人の目を一時的に楽しませる。
しかし、道が山を登り、深奥へと入っていくにつれて、その色彩は削ぎ落とされるようにして急速に失われていく。
標高が上がるにつれて背の低い針葉樹すらも姿を消し、周囲を埋め尽くすのは、風雨に晒されて灰色に変色した冷たい巨岩の連なりだけになる。草木が途絶えた世界の頭上には、ただ吸い込まれそうなほどに青く、しかし一切の温度を持たない、広大な空だけが虚無のように広がっていた。
「廃墟の城塞は、麓の集落から足の早い者でも丸三日はかかる」
かつてガラン辺境領の若者、ガルドの祖父が残したという言葉。ヴェルトはその言葉が意味する「丸三日」という時間の重みを、自らの足裏が捉える大地の傾斜と、薄くなっていく空気の密度(システム環境)によって、きわめて客観的な数値として計測していた。
ヴェルトは、単調に続く上り坂を、一定の歩幅と呼吸の周期を維持しながら歩き続けていた。
彼の右手には、すでに指の形に馴染んだ黒い万年筆が握られており、歩調を一切乱すことなく、膝の上に広げた分厚い羊皮紙のノートに細微な観察データ(ログ)を紡いでいる。
『標高約一、八〇〇。岩石の主成分が玄武岩から花崗岩へとシフト。植生が完全に途絶える境界線(限界高度)を確認。――および、道の痕跡について記述。ヴェルナ帝国時代に軍事用として一糸乱れぬ精度で敷き詰められたはずの石畳が、この高度を境に、不自然なほど完全に消失している』
ヴェルトはサリ、サリ、とインクを走らせ、眼鏡のブリッジを左手の中指で静かに押し上げた。
『消失した石畳の破片が周囲の斜面に散乱していない。自然の風化による劣化ではない。二百年前、帝国がこの山の奥に流派の痕跡、あるいはそれに類する不条理を隠匿する際、後続の追跡を遮断するために、工兵部隊を用いて意図的に“道を物理消去”したと見るのが、確率論的に最も理にかなっている』
「――ヴェルト、さっきからずっとそれ、歩きながら書いていて危なくないのですか」
背後から、少し息を切らせた、しかしどこか凛とした鈴を転がすような声が追いついてきた。
アルテアだ。
王都での激しい動乱を潜り抜けてなお、彼女の純白の銀髪は、この荒涼とした灰色の岩山の中でも不思議なほどの気品を失わず、秋の冷たい陽光を浴びて淡い真珠のような輝きを放っている。彼女は紺色の旅装束の裾を山の突き出た岩に引っ掛けないよう慎重に捌きながら、ヴェルトのすぐ隣へと並んだ。その手には、自らの家系であるレイナード家が二百年前に弾圧した『三花流』の謎を解き明かすための、細身の魔導レイピアが握られている。
「歩行という自動化された運動シーケンスに、視覚リソースを割く必要性は低いからね。私の身体は、路面の微小な高低差を足裏の神経だけで処理できるように最適化されている。それよりも、この先のタイムスケジュールの方が重要だ。……アルテア、何か用かな」
「……いえ。ただ、この世界の果てのような景色を見ていると、少しだけ、誰かの声が聞きたくなっただけです」
アルテアは少し気まずそうに視線を泳がせ、それから前方の、岩が牙のように突き出た峻険な尾根を見上げた。
「ガルドの言っていた通りなら、私たちはあとどのくらいで、その『廃墟の城塞』とやらに到着できると思いますか」
「ガルドの祖父の手記に遺された移動速度と、私たちの平均歩調、およびこれからの斜度の変化を計算式に組み込むなら、明後日の昼前後、およそ十三時間後に目標の座標へと到達する予定だ」
ヴェルトは万年筆を動かしたまま、淡々と応じた。
「――ただし、この環境の天候パラメータが、現時点の数値を維持し続ければ、だがね」
「天候が変わる、と言いたいのですか?」
アルテアが不審そうに、再び広い空を仰ぎ見た。
ヴェルトもまた、万年筆の先端を一時的に止め、西の鋭く切り立った稜線へと視線を向けた。
そこには、先ほどまでは存在しなかった、境界線が不自然なほどくっきりと尖った黒い雲の塊が、じわじわと這い上がるようにして溜まり始めていた。山の気流を予測するのは前世の気象学をもってしても困難なバグを孕むが、あの雲の異常な密度の高まりは、明確なシグナルを放っていた。
「今夜、降るかもしれない。大気の気圧差が急激に拡大している。雨、あるいはこの標高なら、最悪の場合は氷粒の混じる突風になる確率が、六十八・四%に達している」
アルテアはヴェルトのその冷徹な予測を聞き、自らの足元をじっと見つめた。
このような道なき岩山を、冷たい雨に打たれながら歩くなど、王都の貴族令嬢として育てられた彼女のこれまでの人生には存在しなかった過酷な試練だ。だが、彼女の形の良い唇から、泣き言や文句といった無駄なノイズが零れ落ちることは、一言としてなかった。
それが、ローデン村での事件を経て、彼女のなかで何かが決定的に変わったことの、客観的な証明の一つだった。
「……分かりました。なら、天候が崩れる前に、少しでも距離を稼いでおきましょう」
アルテアは銀髪を夜風のような冷気になびかせながら、力強く一歩を踏み出した。
◇
その夜、彼らは大きな花崗岩の巨石が、覆い被さるようにして天然の屋根を形成している岩の陰に、小さな火を起こして野営を張った。
ヴェルトの予測通り、夜の帳が降りると同時に、山の風は狂暴なまでの咆哮を上げ始め、パチパチと音を立てていた熾火を何度も吹き消そうと、執拗に岩の隙間へと滑り込んできた。
冷たい雨そのものは、辛うじて稜線の向こう側に留まっているようだったが、寒気は彼らの衣服の隙間を容赦なくすり抜けていく。
「『盾』の波長を固定します。……これで、風は入ってこないはずよ」
アルテアが、魔導レイピアの切っ先を地面へと向け、極微細なマナを放射した。
彼女の放った透明な魔術の防壁が、岩の隙間を完全に塞ぐカーテンのように展開され、ひゅーーという風の音が、一瞬にして遮断される。火床の炎が、ようやく安定したオレンジ色の輝きを取り戻した。
ヴェルトはその安定した熱源へ、拾い集めていた乾燥した松の根の薪を無駄のない動作で一本、足し入れた。
二人の間に、それ以上の会話は生まれなかった。だが、風を遮るアルテアの魔術と、火を維持するヴェルトの物理的なアプローチは、まるで精緻に組み上げられた時計の歯車のように、一切の無駄なく自然に噛み合っていた。
質素な干し肉のスープを口にし終えた後、アルテアがパチパチと爆ぜる火の粉を見つめながら、静かに声を漏らした。
「ヴェルト。ガランの村で見た『花鏡』の手記に、この廃墟の城塞に関する直接の記述は、本当に何もなかったのですか」
「ああ、直接的な地名としての記述は存在しないよ」
ヴェルトは、火の光を浴びて赤く染まる羊皮紙のノートを見つめたまま応じた。
「ただ、二百年前に三花流が国家によって抹消された際、花鏡が弟子たちを大陆の各地へと散らせた『亡命先の候補』として、山の奥の古い石構造物、という抽象的なデータが残されていた。ガルドの祖父が、あえてこの過酷なガラン辺境領の岩山へと移住してきた理由のバックボーンが、そこにあると私は踏んでいる」
「三花流の、本当の修練場が……、まだあの山の向こうに、当時のまま残っているとしたら」
「残っている確率は、極めて高い。火を放たれでもしない限り、ヴェルナ帝国時代の石の建築物は、百年や二百年という自然の風化では、構造そのものが崩壊することはないからね」
アルテアは少しの間、膝を抱えながら、炎の揺らめきを見つめて思考を巡らせていた。
そして、彼女は意を決したように顔を上げ、眼鏡の青年の冷徹な瞳を真っ向から見据えた。
「……もし、その廃墟に、二百年前に封印された三花流の『型の記録(続き)』が本当に残されていたとしたら。あなたはそれを見て、どうするつもりですか」
ヴェルトは、視線をノートから炎へと移した。その瞳には、熱い炎の光が映り込んでいるものの、その奥にある理性は、どこまでも冷たく静まり返っていた。
「記録する」
「……それだけ、ですか?」
アルテアの声が、微かに揺れた。
「今のところはね。私は歴史の傍観者であり、ありのままの事実を記述する者だ。それ以上の情緒的な意味を付加する必要性は、私の行動システムには存在しない」
アルテアは何かを言いかけて、その形の良い唇を小さく結び、言葉を止めた。
その沈黙は、かつて王都で彼に向けていたような、不審や猜疑に満ちた沈黙ではなかった。ただ、彼の語る冷徹な論理の、その先にある『続き』を、静かに待っているかのような、深い信頼の沈黙だった。
ヴェルトは、薪が燃え尽きて小さく爆ぜる音を聞きながら、少しの間を置いて、言葉を続けた。
「ガランの村で、ガルドが言っていた。――三花流の『未完の続き』を知るべき者が、いつか必ずこの地に現れると、花鏡は信じて手記を残した、とね。私が、その数式に適合する『その者』であるかどうかは、現時点のデータでは判断できない。ただ――」
火が、風の残響を受けて大きく一瞬だけ揺れた。
「その廃墟に残された型の記録を、私の網膜が捉えたとき。……前世の記憶と融合した私の肉体が、どう反応するか。その生体データ(リアクション)を見れば、すべての答えが論理的に導き出されるかもしれない」
ヴェルトは静かに目を閉じ、前世の歴史学者として追いかけ続けた、あの『未完の謎』の残響を、脳内の暗闇の中で静かに、冷徹に反芻していた。




