序章 残響の夜
夜の底は、ただ冷たい油のような静寂に満たされていた。
王都の外れ、劇的な戦闘の余波が未だ壁の亀裂として生々しく残る隠れ家の片隅で、ヴェルトは木製の机に向かっていた。
部屋を照らすのは、一光の魔導灯でもなく、ただの蜜蝋の蝋燭が一本だけ。微かな風が隙間から入り込むたびに、炎は細く身をよじり、壁に座るヴェルトの影を不自然に引き伸ばした。
卓上に広げられた手記の紙面には、黒い炭の粉が不均一に定着している。
ヴェルトが指先に挟んだ炭の棒を動かすたび、カリ、カリ、と、夜の静寂を削り取るような硬質な音が部屋に響いた。
――王都における『三花流』残響の回収、終了。
――レイナード家による二百年間の隠蔽工作、その構造の大部分を把握。
――次なる目的地の確定。ガランの山、廃墟の城塞。
書き終えたヴェルトは、炭の棒を置き、自らの右脇腹へそっと手のひらをあてた。
衣服の上からでも、そこが異常な熱を持っているのが分かる。皮膚の奥で、肉が無理に引き裂かれた痕跡が、呼吸のたびにじくじくと鈍い痛みを脳へと送り続けていた。
ヴェルトの肉体は、外界のあらゆるマナの波動を完全に遮断する「無響の体」だ。
いかに高名な魔導師が放つ攻撃魔法であれ、彼の皮膚に触れた瞬間にただの無害な霧へと還る。しかし、それは同時に「世界の奇跡からの孤立」を意味していた。肉体の結合を促す治癒魔法の光もまた、彼の身体にとっては「排除すべき外界のノイズ」に過ぎない。
ゆえに、この脇腹の深手は、魔法による瞬時の治癒を拒絶し、ただ生物としての遅鈍な新陳代謝だけを頼りに、じわじわと塞がるのを待つしかなかった。
(前世の人間と同じだ。血を流せば、ただそれだけ肉体が摩耗する)
歴史学者として生きた前世の記憶が、その限界を冷徹に告げている。この世界で誰もが道具として頼る魔法というインフラから、自分だけが完全に切り離されている。その緊迫感が、ヴェルトの思考速度を常に一定の冷徹さへと縛り付けていた。
「――まだ、起きていらしたのですね」
扉の蝶番が、微かに軋む音を立てた。
現れたのは、アルテア・レイナードだった。
彼女は旅装のままで、上着を脱いだだけの姿だった。腰から外された細身の魔導レイピアは、机の脇の椅子に立てかけられている。鞘の銀細工には、二百年前に彼女の先祖が三花流を圧殺したという「血の罪」の歴史が、蝋燭の光を浴びて鈍く反転していた。
「記録は、記憶が鮮明なうちに書き留める必要がある。それが私の習慣だ」
ヴェルトは振り返らず、短く、高低のない声で答えた。
「そのお身体で、無理をなさる」
アルテアの歩調は静かだった。旅が始まり、王都での凄惨な真実を経ていく中で、彼女の言葉からは貴族としての余分な装飾が削ぎ落とされ、率直な芯が覗くようになっていた。
彼女はヴェルトの背後に立ち、その痛々しい脇腹の様子を視線でなぞった。彼女の手のひらには、レイナード家が受け継いできた極めて純度の高い治癒魔法のマナが眠っている。だが、それをヴェルトに触れさせても、彼の魂の表面で虚しく霧散することを知っていた。
「私の家の罪が、あなたをそこまで追い詰めた」
アルテアの声に、隠しきれない陰が混じる。二百年前、歴史の表舞台から最強の暗殺剣術を消し去り、改ざんされた歴史の上に成り立つ今の世界。彼女はその加害の末裔としての重圧を、常にその細い肩に背負っていた。
「それは違う」
ヴェルトは断定した。手記のページを、乾いた音を立ててめくる。
「私は歴史学者として、ただ前世で解けなかった謎の答えを求めているだけだ。三花流の封印。花鏡の決断。二百年前に止まった物語の続きを、この手記に正しく縛り付ける。君の家の都合ではない」
「……あなたはいつも、そうやって突き放すのですね」
アルテアはわずかに唇を噛み、立てかけられた魔導レイピアの柄に触れた。金属の冷たさが、彼女の指先を通じて貴族としての矜持を呼び覚ます。
「だが、ガランの山へ向かうのなら、その傷は致命傷になりかねません。あそこは、かつて帝国が防衛の要として築き、そして捨てた『廃墟の城塞』がある場所。標高が高く、空気は乾き、気候の変動は麓の比ではありません」
「知っている。だからこそ、ガロンを雇った」
ヴェルトがその名を呼ぶと同時に、隠れ家の低い天井の向こう、隣の部屋から、ズン、という地響きのような重い音が響いた。
ガロンが、その凄まじい鉄の塊を床に置いた音だった。
布の一枚すら巻かれていない、煤けた黒い鉄。装飾を一切排し、ただ十二キログラムという圧倒的な質量だけで敵を叩き潰すためだけに鍛えられた大剣。ガロンという男は、多くを語らない。ガランの辺境領で村を焼かれ、裏社会の傭兵として食い詰めていた大男。だが、一度ヴェルトの護衛として、その「記録」の旅に同行すると言った以上、その言葉を違えることはない。
彼は魔法を使えない。しかし、だからこそ「無響の体」を持つヴェルトにとっては、最も計算が立ち、信頼に足る物理の理そのものだった。
「奴は山の歩き方を知っている。どれほど霧が深くとも、足元の岩が生きているか死んでいるかを見極める男だ。私の肉体が摩耗する前に、城塞の入り口へ導く手段としては最適だ」
「私も、同行します」
アルテアの言葉には、退かぬ意志があった。
「私は三花流を内側から開ける『鍵を持つ者』かもしれないと、あなたは仰いました。私の血に流れる記憶が、その廃墟にある流派の『第二の型』の痕跡を呼び覚ますのなら、私にはそれを見る義務があります。レイナードの長女として」
ヴェルトは静かに万年筆のキャップを嵌め、手記を閉じた。パタン、と羊皮紙が重なる音が、会話の終わりを告げるように響く。
「ならば、明朝に出立する。荷物は最小限にしろ。魔法ベースのインフラは、ガランの山、特に神聖ヴェナ教国の国境に近づくほど、その管理体制によって制限される。道具としての魔法に頼るな」
「――心得ています」
アルテアは一礼し、自らの魔導レイピアを手に取ると、音もなく部屋を退室していった。
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翌朝、王都の北門を出た一行の眼前に広がっていたのは、どこまでも続く平原と、その最奥にそびえる、雲を突くようなガランの山稜だった。
街道の路面には、数百年前のヴェルナ帝国全盛期に敷設されたであろう玄武岩の石畳が、今なおその基礎を覗かせている。しかし、積年の馬車の車輪によって中央が深く窪み、隙間からはちぎれた野草が青い汁を滲ませていた。
歴史の堆積物の上を、ただ実用のためだけに踏み荒らしていく。
五カ国が拮抗し、古いインフラを消費しながら維持されている今の世界の縮図が、そこにあった。
「……おい、ガキ。足並みが乱れてるぞ。脇腹を庇って右の歩幅が狭い」
前方を歩くガロンが、肩に十二キログラムの黒い大剣を担いだまま、振り返らずに低い声を投げかけてきた。
彼の濁った眼光は、ヴェルトのわずかな肉体の傾き、衣服の擦れる音の乱れから、傷の深度を正確に推し計っていた。
「問題ない。この速度なら、新陳代謝の計算内だ」
ヴェルトは短く答え、歩調を一定に保つ。
空気は次第に冷たさを増し、麓の赤や黄色の色彩は、標高が上がるにつれて少しずつ失われようとしていた。
これから向かうのは、二百年前に歴史が改ざんされ、最強の剣術が消し去られた最奥の地。
ヴェルトは、右手に持った手記の重みを感じながら、一歩一歩、歴史の歪みの中へと足を進めていった。
(花鏡よ。なぜ君は第三の型を前にして剣を収めた。世界を揺るがすほどの歪みとは、一体何だ)
前世で解けなかった謎への執念が、ヴェルトの冷徹な瞳の奥で、静かに、しかし消えることのない炎となって燃え続けていた。
(そこへ行き、すべてを記録する。それが、私の続きだ)
風が、高地特有の乾いた音を立てて、三人の旅装を激しく揺らし始めた。




