29 世の中そんなに甘くない
「これはどういう意味かね?」
場所はガートランド王国魔法省の長官室。
壮年の域に入りつつある黒髪の眼鏡を掛けた穏やかそうな面差しの部屋の主が、向かいに座る人物に問い掛けていた。
男の名はジョージ・ミンスター。
魔法省長官を務める侯爵である。
「辞表ですよ。それから、支給されていた魔法師団長の装備一式です」
テーブルには一通の書面と魔法師団長紀章と認識票。
そして、クリーニングされ丁寧に畳まれた正装と軍装。
ミンスターの向かいに座るのは、ダークブラウンの髪をマニッシュショートにし、左右の耳の前から腰の上まで一掴みだけ伸びた髪を穴の開いた紅玉でそれぞれ纏めた、サファイアの瞳の中性的で整った面差しの若者。
ミンスターは若者を見ながら溜息を吐いた。
「そこまでする必要があるのかね?」
若者は先だって、王宮外廊で諍いを起こした。
それが国王に伝わり、若者に処分が下された。
下された処分は、魔法師団長の職務の無期限停止と王都からの追放。
「長官には感謝しているんですよ」
若者は処分が下ると速やかに王都の屋敷を処分した。
その時、屋敷の家人を受け入れてくれたのがミンスターだ。
「屋敷は残しておいてもよかったんじゃないかね?」
若者が首を横に振る。
「王都追放ですからね。残しておいても意味がありません」
「しかし、これは…………」
ミンスターがテーブルの上の辞表に目を落とす。
「職務を無期限停止された身では魔法師団長の職責を全うできません。ここは潔く身を引いて相応しい人物に後を任せた方がいいと考えたんです」
魔法師団長。
誰もがなりたいと欲し、そのために研鑽を怠らない。
それでも努力だけでは手の届かない地位である。
天性の魔法の才能、豊富な知識、機転の速さもまた必要なのだ。
そんな誰もが憧れる地位を躊躇なく手放すという。
ミンスターは若者の切替えの良すぎることが気になっていた。
「このことを王太子殿下はご存じなのかね?」
「彼は今、東国に遠征中です。だから、いいんです」
決まり悪そうに笑う若者。
若者が王太子に知らせるつもりが無いことをミンスターは悟った。
ミンスターは再び溜息を吐く。
「わかった。辞表は受理する。但し、所在は明確にしたまえ。もちろん、私にだけでいい」
「いやあ。実はどこに行こうか決めてないんですよ。風の吹くまま気の向くままって感じですかね?」
ミンスターは呆れてしまった。
(無計画にも程があるだろう!)
3度目の溜息を吐いたミンスターが若者に提案する。
「では、北に向かいたまえ。アルテオン辺境伯領に私のセーフハウスがある。夏の間だけでいい。2ヶ月はそこで暮らしなさい」
「セーフハウスですか? 長官にも後ろ暗いことがあったんですね?」
「陰謀渦巻く王宮に関わるんだ。それくらいの準備はするものだよ。ちなみに私に後ろ暗いところは無い。清廉潔白ないい人だからね、私は」
「悪い人はみんなそう言うんですよ」
ミンスターと若者がお互いの様子を伺うように視線を交わす。
「これは辞表を受け取る交換条件だ。いいね?」
若者も諦めたように溜息を吐く。
「長官には家人を受け入れて貰った恩もありますしね。了解です。但し、2ヶ月間だけですよ。それ以降は好きにさせて貰いますからね?」
若者が立ち上がる。
「では、長官。お世話になりました」
「週一で近況を報告するのを忘れないように」
「了解です」
若者が長官室を出て行った。
ミンスターは立ち上がると窓の前まで行き外を眺める。
魔法省から立ち去る若者が見えた。
若者と入れ替わるように魔法省の前に馬車が止まった。
歳に似合わない白髪化が進んだ髪が目立つ痩身の中年男が馬車から転がり落ちるように出て来ると魔法省の建物に駆け込むのが見えた。
「慌ただしいですねえ」
他人事のように呟いたミンスター。
バタバタバタバタ!
階段を駆け上がり廊下を駆けてくる音が聴こえる。
バタンッ!
長官室に白髪痩身の中年男が乱暴に扉を開けて入って来た。
「ミンスター殿! 大変だ!」
膝に手を突き、はあはあと息を切らせる男。
「どうしたんですか? 酷く慌てているようですが?」
男がくわっと目を見開いて怒鳴った。
「フォルティス卿が爵位と王国市民権を返上したのだ!」
若者は屋敷を処分するだけでなく、侯爵の地位を捨て、王国民であることも辞めた。
『風の吹くまま気の向くまま』の意味を理解するミンスター。
(相変わらず思い切ったことをしますねえ)
呆れから笑みが零れてしまう。
「何を笑っておるのだ、ミンスター殿!」
ミンスターに噛みついてくるのは王国宰相オーギュスト・フラメル。
ミンスターと同じ侯爵である。
「王国の守りの要が失われたのですぞ! あの『鉄壁のルミナリア』が!」
頭を抱えるフラメル宰相。
「わしは今回の国王陛下の処分に納得していない! フォルティス卿にばかり重い処分ではないか!? あの者が居なくなれば、王国は魔王とそれに与する国々に立ち向かえぬ! フォルティス卿による爵位と王国市民権の返上は、卿が我が国を見捨てたことに他ならない! これはもう国難ですぞ! 陛下も一体何を考えておられるやら!」
「まあ、シャルロッテ様が可愛いのでしょうな。ちなみに今しがた卿が来ておりまして」
不意を突かれて絶句するフラメル。
「王都を追放されたので、風の吹くまま気の向くまま旅に出るそうです。そのまま他国に行ってしまうのではないですかね」
「あああああああ! なんてことだ!!」
フラメルが真っ青になって頭を抱える。
「なぜ止めてくれなかったのですか!?」
フラメルがミンスターに詰め寄る。
「上司でなくなった私には止める権限がありません。卿は魔法師団長を辞めてしまったのですからね」
「ならば、わしが捕まえさせる! 指名手配してでもな!」
「どういう罪状で? 陛下からの処分が済んだ卿はもう何も罪を犯していません」
「貴族の義務を放棄した!」
「爵位を返上した卿に貴族の義務はありません。それに王国市民権も返上した以上、王国民ですらない。身柄を拘束する理由がありませんね」
「それはそうではあるが…………」
フラメルが口籠る。
やがて、意を決したフラメルは、
「とりあえず、王太子殿下に早馬を出そう! 失礼する!」
嵐が去り、静けさを取り戻した長官室。
(セーフハウスに滞在する条件を飲んで貰えたのが幸いしましたね)
窓の外、馬車に乗り込み去って行くフラメルの姿を見送ったミンスターは薄笑いを浮かべながら独り言ちる。
「君は自由の身になったと思っているようだが、世の中そんなに甘くない」
そして、執務机の上に置かれたカップを持ち上げる。
カップの中の冷めきったコーヒーを一口飲んで顔を歪める。
「後々まで尾を引くものなのですよ、この苦いコーヒーのようにね」




