第9話 1,000円払うから入れて!
第9話 1,000円払うから入れて!
東京は、二つの世界に分かれていた。
緑の内側と。
灼熱の外側。
氷華結界が発動して三日。
都心の気温は劇的に下がっていた。
銀座には花が咲き、丸の内の高層ビルは蔦に包まれ、皇居外苑には透明な小川が流れている。
風が吹く。
冷たい。
優しい。
葉擦れの音と、水音が街を満たしていた。
人々はもう、エアコンの室外機音ではなく、木々の呼吸で眠るようになっていた。
一方で。
結界の外。
旧湾岸区域。
そこは地獄だった。
熱が逃げない。
コンクリートと鉄だけの街。
植物に拒絶された区域は、熱を閉じ込め続けている。
気温四十八度。
湿度九十五パーセント。
空気が腐っていた。
「はぁっ……はぁっ……!」
九条レイナは、焼ける道路をよろめきながら歩いていた。
髪は汗で張り付き、ブランド物の白いスーツは黄ばんでいる。
完璧だったネイルは剥がれ、ハイヒールの踵は折れていた。
「なんで……!」
喉が焼ける。
息を吸うたび肺が痛い。
周囲には、かつて彼女へ媚びていた役員たちが倒れ込んでいた。
「水……」
「助けてくれ……」
誰も助けない。
助ける余裕がない。
帝都環境開発本社ビルも今や巨大な熱箱だった。
冷却設備停止。
窓は開かない。
コンクリートが昼の熱を溜め込み続けている。
そこへ、一台の輸送車が横転した。
積まれていたペットボトルが道路へ散らばる。
人々が殺到した。
「どけ!!」
「俺のだ!!」
奪い合い。
怒号。
悲鳴。
レイナはその光景を呆然と見つめた。
かつて自分が“管理”していた東京。
洗練された未来都市。
それが今、乾ききった獣みたいになっている。
その時だった。
風が吹いた。
冷たい風。
レイナははっと顔を上げる。
遠く。
銀座方面。
白い花弁が空を舞っていた。
氷華結界。
その境界線が見える。
蔦に覆われたビル群。
青々とした街路樹。
涼しい風。
生きている都市。
「……あそこ」
レイナは走った。
元上司たちも後を追う。
「待ってくれ!」
「俺も行く!」
灼熱地獄から逃げるように、人々が緑へ殺到していた。
だが。
境界へ近づいた瞬間。
ざわっ、と木々が揺れる。
レイナは立ち止まった。
街路樹が道を塞いでいる。
枝が絡み合い、まるで壁みたいだった。
「どいてよ!!」
レイナは枝を掴んだ。
瞬間。
びしっ!!
鋭い痛み。
枝が鞭みたいに彼女の手を打った。
「っ!?」
熱風が吹き返す。
涼しい風は、彼女だけ避けるように流れていく。
「なんで……!」
周囲の避難民たちは、普通に結界へ入っていく。
泣きながら木陰へ座り込み、水を飲み、安堵している。
だがレイナたちだけが弾かれていた。
元部長が絶叫する。
「ふざけるな!! 俺は帝都環境開発の役員だぞ!!」
その瞬間。
足元の雑草が絡みつき、男を転倒させた。
「ぎゃっ!?」
周囲が息を呑む。
植物が拒絶している。
明確に。
レイナは震え始めた。
「うそ……」
化粧が汗で崩れ落ちる。
マスカラが黒く頬を流れる。
鼻につく香水も、今は汗臭さへ混じっていた。
その時。
花弁が舞った。
ざわり、と周囲の人々が振り返る。
銀座の中央通り。
花咲く並木道を、一人の少女が歩いてくる。
硝子細工みたいな花を足元へ咲かせながら。
カレンだった。
白いワンピース。
透き通るような冷気。
彼女が歩くだけで、熱が静かに消えていく。
人々が道を開けた。
「氷華の魔女……」
レイナの唇が震える。
「……あんた」
カレンは静かに立ち止まった。
昔みたいに怯えてはいない。
ただ、悲しそうな目をしていた。
レイナは一歩踏み出す。
「入れて」
声が掠れていた。
「お願い……」
汗がぽたぽた落ちる。
熱風が肌を焼く。
「お願い! 払うから!」
レイナは泣き叫んだ。
「一〇〇〇円でも十万でも払う!!」
後ろの元上司たちも必死に頭を下げる。
「頼む!!」
「助けてくれ!!」
かつてカレンを嘲笑っていた人間たち。
その姿を、街路樹たちは黙って見下ろしていた。
ざわ……。
葉が鳴る。
怒っている。
傷ついている。
踏み潰された花たちの記憶。
切られた枝。
焼かれた森。
全部、覚えている。
カレンは静かにレイナを見つめた。
そして。
ゆっくり口を開く。
「ええ」
レイナの顔が明るくなる。
だが次の言葉で凍りついた。
「でもあなたは、“その一〇〇〇円の意味”を笑った」
沈黙。
熱風だけが吹く。
レイナの瞳が揺れる。
カレンは続けた。
「お金じゃないんです」
彼女の足元で、白い花が咲く。
「森と共に生きるっていう約束だった」
レイナは言葉を失った。
クロリスが木の上から見下ろしている。
緑の瞳が冷たい。
「君たちは、“自然は黙って搾取されるもの”だと思ってた」
ざわっ、と枝が揺れる。
次の瞬間。
レイナの足元のアスファルトが、熱でめきめき割れた。
「きゃあっ!!」
熱気が吹き上がる。
肌が焼ける。
「助けて!!」
レイナは泣き崩れた。
完璧だった女神は、もうどこにもいない。
汗と涙と熱で崩れた、一人の弱い人間だった。
カレンはしばらく彼女を見つめていた。
そして小さく呟く。
「……森に嫌われるって、こういうことなんです」
その声は静かだった。
怒鳴りもしない。
罵倒もしない。
なのに、何より残酷だった。
風が吹く。
結界の内側では、子どもたちの笑い声が響いている。
水音。
葉擦れ。
涼しい空気。
生きている街。
一方、境界の外では、熱波が揺れていた。
人々はようやく理解し始めていた。
文明を支えていたのは、コンクリートでも機械でもなかった。
名もなき木々と。
土と。
水と。
そして。
ずっと黙って耐えていた自然そのものだったのだと。




