第8話 氷華結界
第8話 氷華結界
東京は限界だった。
四十五度。
湿度九十パーセント。
停電区域拡大。
死者数、不明。
ニュースキャスターの声すら、熱に焼けているみたいに掠れていた。
『現在、都内全域で熱中症被害が拡大しています』
『避難施設は飽和状態です』
『政府は緊急事態宣言を――』
だが、その放送も途中で途切れた。
電力が落ちたのだ。
巨大スクリーンが沈黙し、街が暗くなる。
人々の悲鳴だけが残った。
道路では車が立ち往生し、信号を失った交差点で怒号が飛び交う。エアコンの止まった高層マンションからは、助けを求める声が聞こえた。
熱い。
苦しい。
空気が肺へ入らない。
東京という都市そのものが、巨大な熱病に侵されていた。
旧市街の公園。
木陰の下。
避難民たちが肩を寄せ合っていた。
ここだけは涼しい。
小川が流れ、風が吹き、木々が熱を吸っている。
だがもう限界だった。
「カレンさん……」
白鷺源司郎が汗を拭いながら近づく。
七十を超えた身体は、すでにかなり衰弱していた。
「このままでは、本当に東京が死ぬ」
カレンは黙って空を見上げた。
灰色の空。
熱で揺れる高層ビル。
遠くでまた爆発音が響く。
クロリスが隣へ立った。
今日ははっきり姿を現している。
白銀の髪が風に揺れ、その周囲だけ空気が澄んでいた。
「決めた?」
カレンはゆっくり目を閉じた。
助けたい。
でも。
自然を壊し続けた人間を、許していいのか。
その時だった。
小さな手が、そっと彼女の袖を掴む。
振り返る。
あの少女だった。
汗だくの顔。
けれど真っ直ぐな瞳。
「おねえちゃん」
「……うん」
「木さん、まだがんばってるよ」
少女は公園の大樹を見上げる。
葉は熱風に揺れながら、それでも日陰を作っていた。
「だから、たすけてあげて」
カレンの胸が痛んだ。
木々は怒っている。
苦しんでいる。
それでもなお、人を守ろうとしている。
クロリスが静かに笑う。
「自然ってね、案外お人好しなんだ」
その言葉で、何かが決まった。
カレンは立ち上がる。
熱風が吹く。
髪が揺れる。
白鷺が息を呑んだ。
「まさか……」
カレンは公園中央の大樹へ歩み寄った。
幹へ触れる。
瞬間。
どくん、と鼓動が響いた。
東京中の植物たちの声が流れ込んでくる。
街路樹。
苔。
雑草。
公園。
屋上緑化。
誰にも見向きされなかった小さな緑たち。
暑い。
苦しい。
水が欲しい。
でも。
守りたい。
カレンの瞳から涙がこぼれた。
「……お願い」
風が止まる。
世界が静まり返る。
そして。
カレンは静かに呟いた。
「――氷華結界」
瞬間。
東京全域で、植物たちが目を覚ました。
ざわああああっ!!
ビル壁面を緑が駆け上がる。
灰色のコンクリートを、苔が覆っていく。
高速道路の亀裂から花が咲き、中央分離帯の枯れ木が一斉に葉を広げた。
「なっ……!?」
都民たちが空を見上げる。
巨大オフィスビルの窓ガラスへ蔦が伸び、屋上から樹木が枝を広げている。
地下では水脈が動き始めた。
乾き切った土が水を吸い上げる。
ごうっ、と風が吹く。
違う。
今までの熱風じゃない。
冷たい。
雪解け水みたいな風だった。
「涼しい……」
誰かが呟いた。
その瞬間。
東京全体の空気が変わった。
熱が抜けていく。
植物たちが蒸散を始め、都市の熱を奪っている。
巨大な森が、東京そのものへ生まれ始めていた。
泣き出す人がいた。
「風だ……」
「本物の風だ……!」
エアコンの人工冷気じゃない。
山奥の朝みたいな空気。
湿った土の匂い。
葉擦れの音。
人々は涙を流しながら深呼吸する。
呼吸ができる。
それだけで泣く者もいた。
高層ビルの窓が開き、子どもたちが歓声を上げる。
「お花ー!!」
高速道路の上を白い花弁が舞っていた。
まるで雪。
いや。
氷の花だった。
SNSは瞬時に埋め尽くされる。
『東京が森になってる』
『なんだこれ』
『涼しい』
『生き返った』
だが。
その一方で。
「な、なんでよ!!」
湾岸エリア。
九条レイナは絶叫していた。
彼女の周囲だけ、風が吹かない。
熱気がまとわりつく。
植物たちが避けるように葉を閉じていた。
「なんで私だけ暑いのよ!?」
必死に木陰へ入ろうとする。
だが。
ざわっ、と枝が動き、レイナを拒絶するみたいに道を塞いだ。
「っ……!」
熱風が吹き付ける。
肌が焼ける。
化粧が溶け落ちる。
周囲の人々は涼しい風の中にいるのに、自分だけ灼熱の中へ取り残されていた。
クロリスが遠くからそれを見下ろして笑う。
「嫌われてるね」
カレンは黙っていた。
東京中の植物たちの感情が流れ込んでくる。
怖かった。
苦しかった。
切られた。
焼かれた。
踏み潰された。
でも。
それでも守りたい。
それが森だった。
空では熱に濁っていた雲がゆっくり晴れ始めている。
月明かりが、緑に覆われた東京を照らした。
かつて灰色だった都市は、今や巨大な森へ変わり始めていた。
そして人々は、その中心に立つ少女を見上げる。
花弁舞う風の中。
硝子の靴みたいに光る花を足元へ咲かせながら。
誰かが震える声で呟いた。
「……氷華の魔女だ」
その声は、もう恐怖ではなかった。




