第10話 シンデレラ戴冠
第10話 シンデレラ戴冠
秋。
東京に、風が戻っていた。
かつて四十五度を超えていた灼熱都市は、今や緑に包まれている。
銀座の並木道には白い花が咲き、丸の内の高層ビルは壁面緑化ではなく、本物の蔦と苔に覆われていた。
地下を流れる水脈は都市全体を冷やし、風の通り道に合わせて建物が改修されていく。
人々はもう、“熱を閉じ込める都市”を作らなくなった。
代わりに。
風が抜ける街を作り始めた。
朝のニュースキャスターが笑顔で言う。
『本日、政府は森林環境税を正式に“精霊共生税”へ改定すると発表しました』
画面には新しい制度案が映る。
伐採制限。
地下水保全。
都市緑化義務。
地方林業支援。
そして。
『自然共生適性教育』
人々はもう知っていた。
森は飾りじゃない。
生存インフラなのだと。
地方では廃村寸前だった山村が再び活気を取り戻し始めていた。
「東京へ木材を出荷するぞ!」
「若い連中が戻ってきた!」
チェーンソーではなく、人の笑い声が山へ響く。
切るだけでは終わらない。
植える。
育てる。
水を守る。
百年単位で森を考える。
そんな当たり前を、日本は少しずつ思い出し始めていた。
一方。
帝都環境開発本社。
かつて《エデン》計画を誇った巨大企業は、今や完全に再編されていた。
ガラス張りだった無機質な本社ビルは、全面が緑に覆われている。
蔦が揺れる。
屋上には木々が並び、小川まで流れていた。
そしてその場所は。
かつて、カレンが冷水を浴びせられた場所だった。
秋風が吹く。
涼しい。
葉擦れの音が優しく耳へ触れる。
木陰のテラスで、カレンは紅茶を飲んでいた。
琥珀色の液体から、微かな湯気が立ち上る。
冷えたガラスカップを持つ指先へ、柔らかな風が触れた。
「……静かですね」
カレンが呟く。
隣ではクロリスが寝転がっていた。
長い白銀の髪を風へ流しながら、空を見上げている。
「人間って面白いよね」
「え?」
「滅びかけないと、大事なものを思い出せない」
カレンは苦笑した。
遠くでは、小鳥の鳴き声が聞こえる。
以前なら考えられなかった音だった。
東京から鳥が消えて、もう十年以上経っていたから。
クロリスが起き上がる。
「でも、君は最初から知ってた」
「……そんな立派じゃありません」
カレンは紅茶を見つめた。
自分はただ、木が好きだっただけだ。
涼しい木陰。
濡れた土の匂い。
風の音。
子どもの頃、祖父の山で感じた安心感を忘れられなかっただけ。
その時、屋上扉が開いた。
「失礼します」
若い女性職員が頭を下げる。
以前、会議室で小さく「東屋、好きでした」と言ってくれた事務員だった。
今は新設された環境共生局の職員章を胸につけている。
「白鷺顧問がお見えです」
「どうぞ」
白鷺源司郎は少し痩せていた。
だが目には力が戻っている。
「相変わらず涼しいな、ここは」
「木が頑張ってくれてますから」
白鷺は屋上を見回した。
花。
苔。
小川。
そして、風。
「昔の東京では考えられん」
彼は静かに笑う。
「まさか帝都環境開発の屋上が、本物の森になるとはな」
カレンは少しだけ目を伏せた。
あの日を思い出す。
笑われた。
踏みにじられた。
冷水を浴びせられた。
でも今は、不思議と怒りが薄れていた。
木々が風に揺れる。
まるで「もういい」と言っているみたいだった。
白鷺が書類を差し出す。
国家環境設計官任命通知。
日本初の役職だった。
「正式決定だ」
カレンは目を丸くする。
「……本当に、私が?」
「君以外に誰がいる」
白鷺は真っ直ぐ言った。
「この国で、自然と話せる人間は」
カレンは困ったように笑った。
「話してるというより……怒られてばかりですけど」
クロリスが吹き出す。
「それは本当」
三人の笑い声が、風へ溶けた。
遠くには緑化された東京が広がっている。
かつて灰色だった街。
熱を閉じ込め、人を苦しめていた都市。
でも今は違う。
木々が呼吸している。
川が流れている。
風が抜けている。
人間がようやく、“自然と共に生きる”ことを思い出し始めていた。
その時だった。
屋上の床へ、小さな光が落ちる。
カレンは足元を見た。
硝子の靴。
あの日、花と共に現れた透明な靴が、静かに光を放っている。
クロリスが楽しそうに目を細めた。
「次の街、行く?」
カレンは立ち上がった。
風が吹く。
白い花弁が舞う。
銀座の向こう。
さらに遠く。
熱に苦しむ地方都市がまだいくつも残っている。
救える場所がある。
守れる森がある。
カレンはゆっくり微笑んだ。
「次は、どの街を救おうかしら」
その声と共に。
東京の空を、冷たく優しい風が吹き抜けていった。




