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エピローグ 森は、優しくない

エピローグ 森は、優しくない


夏の朝だった。


午前六時。


東京はもう、かつての灼熱都市ではない。


街路樹は深く葉を茂らせ、ビル壁面を覆う苔が夜露を抱き、風は熱ではなく水の匂いを運ぶ。


人々は早朝、公園でラジオ体操をするようになった。


冷房室へ閉じこもるのではなく、木陰で呼吸するために。


その日も、旧湾岸地区再生公園には多くの人が集まっていた。


ラジオから軽快な音楽が流れる。


「はいっ、腕を大きく回してー」


子どもたちが笑う。


老人たちがゆっくり身体を伸ばす。


湿った土の匂い。


朝露を含んだ芝生。


風に揺れる葉音。


まるで避暑地みたいな朝だった。


「うーん、気持ちいいですねぇ」


白鷺源司郎が汗を拭いながら笑う。


その隣で、カレンも小さく伸びをした。


「ここ、昔はコンクリートしかなかったんですよね」


「信じられんだろう」


白鷺は木々を見上げた。


今や巨大な雑木林へ変わった公園では、小川が流れ、小鳥が鳴き、蝶が飛んでいる。


人間だけではない。


多くの命が戻ってきていた。


その時だった。


ぱちん。


カレンが首筋を押さえる。


「……いたっ」


「どうしました?」


「刺されました」


腕を見る。


赤く膨れている。


さらに。


「ひゃっ!?」


今度は足首。


耳元で、ぷぅぅぅん、と羽音が鳴る。


カレンの顔が引きつった。


「うそ、また!?」


十分後。


ベンチへ座り込んだカレンは、半泣きになっていた。


「……十か所」


「刺されすぎだろう」


クロリスが腹を抱えて笑っている。


木の上で寝転びながら、心底楽しそうだった。


カレンは恨めしそうに睨む。


「笑い事じゃないです……!」


腕。


脚。


首。


あちこち赤く腫れている。


かゆい。


ものすごくかゆい。


「なんで私ばっかり……!」


その瞬間。


耳元でまた羽音。


「きゃっ!」


ぱしん!!


勢いよく自分の頬を叩く。


周囲の人々が吹き出した。


「氷華の魔女、蚊には弱いんだな」

「かわいいー!」


カレンは真っ赤になった。


クロリスは笑いながら枝から飛び降りる。


「当然だよ。水と緑が増えれば、虫も戻る」


「でも蚊ですよ!?」


カレンは涙目で訴える。


「蚊って、人類最大の敵なんですよ!? 年間何十万人も死んでるんですよ!? マラリアとかデング熱とか!」


クロリスは少しだけ笑みを薄くした。


風が吹く。


葉が揺れる。


「……そうだね」


その声は静かだった。


「人間はよく、“自然は優しい”って勘違いする」


カレンはかゆみ止めを塗りながら顔をしかめる。


クロリスは空を見上げた。


「でも自然は、本来ただ“そこにあるもの”なんだ」


木々がざわめく。


朝露が葉先から落ちる。


「森は人を癒やす。でも同時に、病気も虫も嵐も生む」


「……」


「人間だけの都合で出来てないんだよ、この世界は」


カレンは黙った。


遠くでは子どもたちが虫取り網を振っている。


セミが鳴く。


池ではトンボが飛び、水辺には小さな蚊柱が揺れていた。


昔なら即座に殺虫剤を撒いていたかもしれない。


でも今、人々は少しずつ理解し始めている。


自然とは、“管理対象”ではない。


共に生きるものなのだと。


白鷺が苦笑する。


「しかし蚊は本当に厄介だな。昔から人類を殺し続けてきた」


「戦争すら左右しましたからね」


カレンが頷く。


「どれだけ文明が進んでも、あの小さな虫一匹に負けることがある」


クロリスが楽しそうに笑う。


「面白いよね。超高層都市を作ったくせに、蚊には勝てない」


「笑えません……!」


また羽音。


カレンは反射的に身構えた。


だが次の瞬間。


ぱくっ。


空中から飛び出した燕が、蚊を飲み込む。


「あ」


燕は旋回し、林の方へ飛び去っていった。


クロリスが肩をすくめる。


「自然って、ちゃんと繋がってるから」


「……食物連鎖」


「そう。蚊だけ全部消そうとすると、別の何かが崩れる」


カレンは公園を見回した。


蝶。


鳥。


虫。


草。


水。


風。


全部が関係し合って、この空間を作っている。


昔の東京は、それを全部切り離していた。


だから壊れた。


その時、小さな男の子が走ってきた。


「おねーちゃん!」


「ん?」


男の子はカレンの赤く腫れた腕を見て、目を丸くする。


「うわぁ、いっぱい刺されてる!」


周囲が笑う。


カレンは恥ずかしそうに頬を押さえた。


男の子はポケットをごそごそ探り、小さなハーブ袋を差し出した。


「これ、おばあちゃんの!」


「え?」


「虫よけになるんだって!」


袋から爽やかな香りが広がる。


ミント。


レモングラス。


優しい植物の匂い。


カレンは思わず笑った。


「……ありがとうございます」


男の子は得意げに胸を張る。


「森と仲良くするには、工夫がいるんだよ!」


クロリスが吹き出した。


「君より分かってる」


「もう!」


朝日が木漏れ日になって差し込む。


風が吹く。


葉が揺れる。


そしてその中で、人々は笑っていた。


完璧じゃない世界。


虫もいる。


病気もある。


自然は時に恐ろしく、理不尽だ。


それでも。


コンクリートだけの死んだ都市より、ずっと呼吸しやすかった。


カレンは赤く腫れた腕を掻きながら、小さく笑う。


「……次は、蚊とも共生を考えないとですね」


クロリスはにやりと笑った。


「それ、人類史最大級の難題だよ」


夏の風が吹き抜ける。


木々のざわめきの中で、小さな羽音だけが、まだ元気に響いていた。



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