第7話 東京45℃
第7話 東京45℃
その朝、東京は燃えていた。
午前六時。
まだ太陽は昇り切っていない。
それなのに、都心気温はすでに四十度を超えていた。
空気が重い。
湿っているのに乾いている。
肺へ吸い込むたび、喉の奥が焼ける。
気象庁の緊急速報が全端末へ一斉送信される。
『観測史上最大熱波』
『不要不急の外出を禁止』
『冷却施設へ避難してください』
だが。
その冷却施設が、次々と停止していた。
「新宿第三区、冷却タワー停止!」
「湾岸冷却ライン、出力低下!」
「中央送電網が過負荷です!」
怒号が飛び交う。
都庁地下の災害対策本部は、すでに戦場だった。
大型モニターへ映る東京は赤い。
熱分布図が真紅に染まっている。
四十二度。
四十三度。
四十五度。
誰かが震える声を漏らした。
「……人が住める温度じゃない」
エアコン使用量は限界を超えていた。
室外機が熱を吐き続け、街はさらに熱を蓄積する。
冷やそうとするほど、都市が熱を生む。
悪循環。
そして午前八時。
ついに来た。
都心変電所の一つが爆発したのだ。
閃光。
轟音。
黒煙。
直後、広域停電が始まる。
「あっ……」
オフィス街の巨大ビジョンが一斉に消えた。
地下鉄停止。
信号停止。
冷却設備停止。
人々の悲鳴が広がる。
「エアコン切れた!?」
「うそだろ!」
「窓開けても熱風しか来ない!」
病院では人工呼吸器の非常電源が次々限界を迎え、救急隊は熱中症患者で麻痺状態だった。
道路脇で人が倒れる。
救急ドローンが足りない。
水が足りない。
電気が足りない。
東京が死に始めていた。
その頃。
旧市街の小公園。
木々の葉がさらさらと揺れている。
地下水が流れる音。
涼しい風。
まるで別世界だった。
避難してきた人々が木陰へ身を寄せ、静かに眠っている。
赤ん坊の寝息。
小川では子どもたちが足を冷やしていた。
カレンは東屋の柱へ触れながら、空を見上げた。
熱で歪んだ雲。
白く霞む太陽。
クロリスが枝の上で呟く。
「始まったね」
その声は静かだった。
嬉しそうでも悲しそうでもない。
ただ、長く待っていたものを見る目だった。
「……こんなことになるなんて」
カレンは胸を押さえた。
遠くからサイレンが止まらない。
焦げ臭い匂いが風に混じる。
東京中が悲鳴を上げているのが分かる。
その時だった。
公園入口へ数台の黒塗り車両が滑り込んできた。
SPが飛び降りる。
背広姿の男たち。
汗だくの官僚。
そして中央から現れたのは、環境大臣その人だった。
人々がざわつく。
男はカレンを見るなり、深く頭を下げた。
「……お願いです」
周囲が息を呑む。
大臣が土下座したのだ。
額を地面へ擦りつける。
「東京を救ってください」
カレンは固まった。
「え……」
「もう、通常冷却は限界です。電力網も持たない。都内死亡者数は今日だけで一万人を超える可能性がある」
声が震えていた。
プライドなどもう残っていない。
「あなたしかいないんです……!」
官僚たちまで頭を下げる。
その姿を見て、避難民たちがざわめく。
「氷華の魔女……」
「本当にいたんだ……」
カレンは唇を噛んだ。
助けたい。
苦しんでいる人を見捨てたくない。
でも。
その瞬間、頭の中へいくつもの光景が蘇る。
枯れた街路樹。
切り倒された森。
笑われた木陰。
「森林環境税一〇〇〇円分も働かない無能」
レイナの声。
嘲笑。
熱風。
踏み潰された花。
クロリスが静かに言った。
「決めるのは君だよ」
風が止まる。
木々がざわめく。
まるで森全体が、彼女の答えを待っているみたいだった。
大臣が叫ぶ。
「どんな条件でも飲みます! 予算も権限も全て渡す! だから……!」
カレンはゆっくり目を閉じた。
湿った土の匂い。
葉擦れの音。
冷たい地下水の流れ。
植物たちの声が聞こえる。
苦しい。
暑い。
切らないで。
汚さないで。
ずっと聞こえていた。
人間が聞こうとしなかっただけで。
カレンは静かに目を開けた。
そして、はっきりと言った。
「……自然を踏みにじった人間は、森に入れません」
空気が凍る。
官僚たちの顔が青ざめた。
「そ、それは……」
「木を切って、川を埋めて、土をコンクリートで塞いで」
カレンの声は静かだった。
怒鳴っていない。
なのに誰より痛かった。
「エアコンの室外機を、森へ向け続けたのは誰ですか」
誰も答えられない。
「木陰を“非効率”と笑ったのは」
熱風が吹く。
遠くでまた変電所が爆発した。
黒煙が空へ昇る。
カレンは東京を見つめた。
巨大都市。
人類の誇り。
でも今は、熱を閉じ込めた巨大な檻だった。
クロリスが小さく笑う。
「人間はずっと、“自然は弱い”って勘違いしてた」
その時だった。
避難民の中から、小さな女の子が出てきた。
汗だくのまま、カレンを見上げる。
「おねえちゃん」
か細い声。
「お花、きれいだった」
カレンの胸が締め付けられる。
少女の母親が慌てて頭を下げる。
「すみません……!」
だが少女は続けた。
「木さん、いたいって泣いてるの?」
カレンは目を見開いた。
少女は公園の木へそっと触れる。
「だいじょうぶって、してあげて」
沈黙。
風が吹いた。
葉が揺れる。
クロリスが優しく微笑む。
「……ほらね」
カレンの瞳が揺れた。
助けるべきか。
拒絶するべきか。
その答えを、森が静かに見つめていた。
空では灼熱の太陽が、まるで世界を焼き尽くすみたいに燃えていた。




