第5話 偽りの女神
第5話 偽りの女神
開業式当日。
東京は朝から異様な熱気に包まれていた。
午前八時の時点で気温は四十三度。湿度は八十七パーセント。空は白く濁り、高層ビル群の輪郭すら熱で歪んで見える。
だが人々は期待していた。
東京を救う“奇跡”に。
湾岸エリアへ建設された巨大冷却ドーム――《エデン》。
帝都環境開発と政府が総力を挙げて作り上げた、国家最大級の環境制御施設。
ドーム表面には特殊遮熱フィルム。
内部には超大型冷却機関。
人工気流制御システム。
最新湿度管理AI。
投入予算、三兆円。
ニュースキャスターが興奮気味に叫ぶ。
「ついに完成しました! 未来都市東京の希望、《エデン》です!」
巨大スクリーンに映る九条レイナは、まるで女神みたいだった。
純白のドレス。
涼しげな微笑み。
完璧に計算された角度。
政治家たちが媚びるように拍手し、スポンサー企業の代表が満足そうに頷いている。
「九条さん、歴史に名を残しますな」
「東京を救う救世主ですよ」
レイナは上品に笑った。
「ありがとうございます。でも、これは私一人の功績ではありません。科学と技術、そして人類の英知の結晶です」
その言葉に、会場はさらに沸いた。
一方その頃。
カレンは少し離れた旧市街の小公園にいた。
木陰の下。
小さな東屋。
冷たい湧き水。
風に揺れる葉音。
そこだけ別世界みたいに涼しい。
ベンチでは老人たちが眠り、子どもたちが裸足で小川を走っていた。
「今日、例のドーム完成なんだって」
母親の一人が端末を見ながら言う。
「ここも十分涼しいのにねぇ」
カレンは苦笑した。
クロリスが木の上で寝転びながら笑う。
「人間は“大きいもの”が好きだから」
「……失敗、しませんよね」
「するよ」
即答だった。
カレンは目を瞬かせる。
「えっ」
クロリスは空を見上げた。
「熱を閉じ込めて、湿気まで循環させてる。植物も土も水脈もない空間で、空気だけ冷やそうとしてるんだ」
葉がざわりと鳴る。
「森の真逆だよ」
その頃、《エデン》内部。
開業セレモニーが始まっていた。
巨大ドームの中は、たしかに外より気温が低い。
三十五度。
だが人々は歓声を上げていた。
「涼しい!」
「外と全然違う!」
シャンパンが配られ、政財界の大物たちが笑い合う。
レイナは満足げに頷いた。
「これが未来です」
だが。
十分後。
「……あれ?」
誰かが顔をしかめた。
じっとりする。
空気が重い。
肌へ水膜が張り付くみたいな不快感。
湿度表示が九十二パーセントを示していた。
技術者たちが慌てて端末を確認する。
「除湿機構、負荷上昇!」
「結露量が想定を超えてます!」
レイナの笑顔が微かに引きつった。
「すぐ調整しなさい」
しかし湿度は止まらない。
九十五。
九十八。
そして。
一〇〇。
瞬間。
ドーム内部が白く霞んだ。
「きゃっ!?」
「な、何これ!」
蒸気だった。
冷却された空気が逃げ場を失い、内部で飽和している。
熱。
湿気。
人の体温。
機械排熱。
それら全てが巨大な密閉空間で循環し始めた。
スーツが肌へ張り付く。
メイクが崩れる。
呼吸が苦しい。
「暑い……!」
「酸素が……!」
誰かが倒れた。
次々と悲鳴が上がる。
高齢の政治家が顔を真っ赤にして崩れ落ち、救護班が怒号を飛ばす。
「出口を開けろ!」
「外気導入間に合いません!」
「内部温度上昇してます!」
レイナは青ざめた。
「嘘でしょ……」
その瞬間。
ぶしゅうううっ!!
配管の一部が破裂した。
高温蒸気が吹き出す。
悲鳴。
阿鼻叫喚。
人々が出口へ殺到する。
だが外との気圧差で扉がうまく開かない。
「押すな!」
「子どもがいる!」
「助けてぇっ!!」
巨大ドームは、巨大な蒸し風呂になっていた。
ニュース映像はリアルタイムで拡散される。
『エデン地獄』
『湿度100%』
『東京サウナ』
『税金三兆円が蒸し器化』
SNSは爆発的炎上状態だった。
一方。
カレンの公園。
さらさら、と水が流れる音。
木漏れ日。
涼風。
人々は静かに深呼吸していた。
「生き返る……」
「ここだけ空気違う……」
汗だくだった男性が、木陰へ座った瞬間に涙ぐむ。
「涼しい……本当に涼しい……」
木々が風を作っている。
葉から蒸散した水分が熱を奪い、地下水が地面を冷やし、土が湿気を吸っている。
誰も説明できない。
でも身体が理解していた。
ここは呼吸できる場所だと。
配信者が興奮して叫ぶ。
「見てください! ドームが地獄化してる中、こっちは二十七度です!! エアコン一台もないんですよ!?」
コメント欄が流れる。
『氷華の魔女やばい』
『本物じゃん』
『税金返せ』
『自然の方が強い』
カレンは不安そうに俯いた。
「こんな騒ぎになるなんて……」
クロリスが笑う。
「当然だよ。人間は今まで、“自然は弱い”って思い込んでたから」
その時だった。
公園入口へ黒塗りの高級車が止まる。
勢いよく扉が開いた。
現れたのは、汗と化粧崩れで顔を歪めた九条レイナだった。
白いドレスは蒸気で肌へ張り付き、髪は乱れ、完璧だったはずの姿が崩れている。
周囲がざわつく。
レイナは公園の涼しさに息を呑んだ。
「……何よ、ここ」
木々がざわりと揺れた。
拒絶するみたいに。
レイナの目が鋭く細くなる。
「いるんでしょ」
彼女は吐き捨てるように言った。
「“氷華の魔女”」
カレンの心臓が強く跳ねた。
クロリスは楽しそうに笑っていた。
「始まったね」
熱に壊れ始めた東京の夜空を、白い花弁が静かに舞っていた。




