第3話 熱帯夜の追放
第3話 熱帯夜の追放
「以上をもって、懲戒解雇とする」
会議室の空気は冷えていた。
だがその冷気は、カレンの肌を刺すだけで、少しも心を落ち着かせてはくれなかった。
長机の向こうには部長、人事担当、法務部の社員。全員が書類ばかり見ていて、誰ひとり彼女の顔をまともに見ようとしない。
壁面モニターには、「会社資材不正使用」「情報漏洩疑惑」の文字が並んでいる。
カレンは乾いた喉を動かした。
「……私は、横領なんて」
「証拠はある」
部長が冷たく言った。
「資材搬出記録。SNSへの拡散。会社の許可なき施工」
「でも、あの東屋は……!」
「黙りなさい」
机を叩く音。
びくりと肩が震える。
「君は会社へ損害を与えた。退職金も支給しない」
窓の外では、真夏の太陽が白く燃えていた。
高層ビル群が熱を反射し、東京全体が巨大なフライパンみたいに揺らいでいる。
カレンは唇を噛み締めた。
悔しい。
苦しい。
けれど、それ以上に悲しかった。
木の声を聞いた。
風を感じた。
やっと自分にも価値があると思えたのに。
全部、奪われた。
「では社員証を」
人事担当が手を差し出す。
カレンは震える手で首から社員証を外した。
その時だった。
「カレンさん」
ふいに声がした。
若い事務員の女性だった。
彼女は周囲を気にしながら、小さく頭を下げる。
「……あの東屋、好きでした」
一瞬だけ、救われた気がした。
だが次の瞬間、
「私語は慎め」
部長の声が飛ぶ。
女性は青ざめて俯いた。
カレンは静かに会議室を出た。
エレベーターの中は妙に寒かった。
地下へ降りる間、金属箱の中でひとりになる。
数字が減っていく。
二十階。
十五階。
十階。
もう戻れない。
一階に着いた瞬間、熱気が流れ込んできた。
むわり、と肺が焼ける。
ビル風すら熱かった。
街は夕方なのに四十度を超えている。道路脇には熱中症患者搬送用ドローンが何機も停まり、遠くで救急サイレンが途切れなく響いていた。
カレンは重い足でアパートへ帰った。
六畳一間。
古い木造。
ドアを開けた瞬間、むっとした熱気が顔へぶつかる。
「あ……」
エアコンが止まっていた。
天井の電灯も点かない。
嫌な予感がして端末を確認する。
『電気料金未納のため供給停止』
膝から力が抜けた。
昼間の懲戒通知のせいで口座凍結処理まで進んでいたのだ。
窓を開けても熱風しか入ってこない。
室温表示は四十二度。
息を吸うだけで喉が焼けた。
汗が止まらない。
頭がぼうっとする。
「……はは」
笑ってしまった。
惨めすぎて。
床に座り込む。
冷蔵庫の中にはぬるいペットボトルが一本だけ。
飲んでも身体が冷えない。
夜になっても気温は下がらなかった。
熱帯夜。
いや、もう熱帯ですらない。
東京は巨大な蒸し風呂だった。
クロリスの声が微かに響く。
――ここにいると死ぬよ。
カレンはぼんやり天井を見た。
「……どうすればいいの」
――緑のある場所へ。
公園。
その言葉が浮かんだ。
カレンはふらつきながら外へ出た。
夜なのに空気が赤い。
アスファルトが昼の熱を抱えたまま、じりじりと靴底を焼いてくる。
コンビニ前には冷却ミストを求める人々が群がり、道路脇では酔った男が吐いていた。
遠くで子どもが泣いている。
東京が壊れていく音だった。
やっと辿り着いたのは、小さな公園だった。
だが木々は半分枯れ、芝生も茶色く変色している。
ベンチへ座った瞬間、全身から力が抜けた。
「……もう、疲れた」
ぽつりと漏れる。
すると。
ざわ、と葉が揺れた。
風はない。
なのに木々だけが、彼女を慰めるみたいに枝を鳴らしている。
――泣かないで。
――君は悪くない。
カレンは目を閉じた。
涙が頬を伝う。
その時だった。
どさり、と鈍い音が響いた。
「え……?」
振り返る。
老人が倒れていた。
スーツ姿のまま、地面へ崩れ落ちている。
「だ、大丈夫ですか!?」
駆け寄る。
肌が異常に熱い。
呼吸が浅い。
熱中症だ。
だが救急端末は「搬送待機三時間」と表示される。
「そんな……!」
老人の唇が微かに動いた。
「……水……」
カレンは周囲を見回した。
自販機は停止。
水道も節水制限で止まっている。
どうしよう。
焦りで呼吸が乱れる。
その時。
――地下。
クロリスの声。
――この下に、水が眠ってる。
カレンは地面へ手をついた。
乾いた土。
ひび割れた芝。
だがその奥に、確かに流れを感じる。
冷たい水脈。
「お願い……!」
無意識に叫んでいた。
「助けて……!」
その瞬間。
公園の木々がざわりと揺れた。
葉が鳴る。
根が軋む。
地面の奥で、水が動く音がした。
ごぽっ、と土が盛り上がる。
次の瞬間、小さな水流が地面から噴き出した。
「……っ!」
冷たい。
透明な水だった。
同時に、公園全体へ風が吹き抜ける。
熱気が流れていく。
濡れた土の香り。
森の匂い。
木々が一斉に呼吸を始めたみたいに、空気が変わる。
カレンは震える手で老人へ水を飲ませた。
老人は激しく咳き込み、それからゆっくり目を開ける。
「……君が、やったのか」
低い声だった。
鋭い目。
ただの老人ではない。
カレンは慌てて首を振る。
「ち、違います、私は……!」
「いや」
老人は木々を見上げた。
ざわめく葉。
吹き抜ける涼風。
そしてカレンの周囲だけ漂う、異様な冷気。
老人の目が細くなる。
「本物か……」
「え?」
老人はゆっくり立ち上がった。
汗で濡れたスーツの胸元には、小さな政府徽章が光っている。
白鷺源司郎。
その名前を見た瞬間、カレンは息を呑んだ。
知らない人間はいない。
国家森林政策本部、最高顧問。
森林環境税を作った張本人だった。
白鷺はしばらく彼女を見つめ、それから静かに笑った。
「ようやく見つけたよ」
夜風が吹く。
東京の熱気の中で、その公園だけが、まるで深い森の中みたいに涼しかった。




