第2話 1,000円の契約
第2話 1,000円の契約
「……また来た」
翌朝、カレンは駅前の街路樹を見上げながら、小さく呟いた。
熱気に濁った東京の空。その下で、葉を失いかけた並木だけが、彼女へ向かってざわざわと枝を鳴らしている。
まるで、話しかけてくるみたいに。
昨夜の出来事は夢ではなかった。
カレンの歩いた場所には花が咲き、周囲の温度が下がった。SNSではすでに「銀座に突然現れた氷の花道」と騒ぎになっているらしい。通勤途中のサラリーマンたちが興奮気味に話しているのが聞こえた。
「見た? 昨日の動画」
「加工じゃないの?」
「いや、気温計が本当に下がってたらしいぞ」
カレンは帽子を深く被った。
自分のことだとは、まだ信じられなかった。
帝都環境開発へ向かう途中、むわりとした排熱がビル街を満たしている。エアコン室外機の熱風が肌を焼き、喉が乾く。吸い込む空気まで熱い。
その時だった。
――おはよう。
耳元で声がした。
カレンは飛び上がりそうになって振り返る。
だが誰もいない。
歩道脇の植え込みだけが、さらさらと揺れていた。
「……また、あなた?」
――あなた、という呼び方は嫌いだな。
声は笑っていた。
男のようにも、女のようにも聞こえる。不思議と耳に残る、澄んだ響き。
――クロリスと呼んで。
「クロ……リス?」
――うん。君たち人間の言葉なら、“植物精霊王”ということになるのかな。
カレンは立ち止まった。
心臓がどくどく鳴る。
普通なら頭がおかしくなったと思うはずなのに、不思議と恐怖はなかった。
むしろ懐かしい。
森の奥で風の音を聞いている時みたいな安心感がある。
「精霊……王……?」
――君、人間のくせに本当に知らないんだね。
くすくす笑う気配。
街路樹の葉が楽しそうに揺れる。
――森林環境税。あれが何か、考えたことある?
カレンは眉を寄せた。
「森林を守るためのお金……じゃ」
――表向きはね。
風が吹いた。
熱気の中に、冷たい森の香りが混ざる。
――本当は契約金だよ。人間が自然と繋がるための。
カレンは息を呑んだ。
「契約……」
――昔、人類は森を畏れていた。川に祈り、木に感謝し、風を読むことを忘れなかった。だから精霊たちは力を貸した。
クロリスの声が少し寂しそうに揺れる。
――でも今は違う。君たちは自然を“資源”としか見なくなった。
目の前を巨大配送トラックが通り過ぎ、熱風が巻き上がる。
街路樹の葉が苦しそうに震えた。
カレンは思わず幹へ触れる。
熱い。
生き物の温度じゃない。
焼けた鉄みたいだ。
その瞬間、木の奥から感情が流れ込んできた。
苦しい。
暑い。
水が欲しい。
「っ……!」
カレンは反射的に手を離した。
呼吸が乱れる。
「今の……」
――聞こえたでしょ?
クロリスが優しく囁く。
――君は愛されてるんだよ。植物たちに。
帝都環境開発へ着く頃には、背中まで汗で濡れていた。
エントランスの巨大モニターでは、九条レイナがインタビューを受けている。
『都心冷却モデル計画、成功への鍵は“先進的環境デザイン”です』
涼しい顔。
完璧なメイク。
だがカレンは知っている。
あの屋上緑化が、もう半分枯れていることを。
「おはようございます」
小さく頭を下げると、受付の女性が露骨に顔をしかめた。
「あ……おはようございます」
空気が冷たい。
昨日の件でもう社内に広まったのだろう。
カレンは黙って資材倉庫へ向かった。
環境維持部から外された彼女に残された仕事は、廃材整理だけだった。
埃っぽい倉庫の中には、間伐材や使われなくなった木材が積み上げられている。木の匂いだけが妙に落ち着いた。
カレンは一本の杉材へ触れた。
その瞬間。
――寒い場所を作れるよ。
声がした。
木材の奥から、微かな冷気が流れてくる。
「え……?」
――この子たち、まだ死んでない。
クロリスが笑う。
――人間は切ったら終わりだと思ってるけど。
カレンはそっと木を撫でた。
年輪の感触。
乾いた木肌。
けれど確かに、何かが脈打っている。
「……できるの?」
――やってごらん。
昼休み。
カレンは倉庫の隅で、廃材を組み始めた。
小さな東屋だった。
昔、祖父と山で見た休憩小屋を思い出しながら、一本一本木材を組んでいく。
釘を打つ音。
木の香り。
汗が落ちる。
不思議と身体が軽かった。
「何してんの?」
後ろから声がした。
振り返ると、若い社員たちが笑いながらこちらを見ている。
「DIYごっこ?」
「雑草女、ついに大工になった?」
笑われても、カレンは手を止めなかった。
木に触れるたび、涼しい風が指先を抜ける。
夕方。
小さな東屋が完成した。
屋上の片隅。
誰も使わないスペース。
カレンはそっと柱へ触れた。
すると。
ふわり、と風が吹いた。
熱気が消える。
むっとした湿気が抜けていく。
木陰の匂い。
沢のそばみたいな冷気。
「……え?」
通りかかった社員が足を止めた。
「なにここ……涼し……」
「軽井沢みたい」
次々と人が集まる。
誰もが驚いた顔で深呼吸をしていた。
エアコンの人工冷気ではない。
肺の奥が楽になる、本物の涼しさだった。
その夜。
SNSは騒然となった。
『都心に謎の避暑地発見』
『木だけで気温五度低下』
『自然冷却やばい』
動画は一晩で拡散された。
だが翌朝。
出社したカレンは凍りついた。
東屋の前で、九条レイナが取材を受けていたのだ。
「こちらが私の提案した“都市型森林冷却モデル”です」
カメラのフラッシュ。
拍手。
レイナは涼しげに笑っている。
カレンは唇を震わせた。
「……それ、私が」
「あなた?」
レイナが振り返る。
その目は氷みたいに冷たかった。
「何か証拠でもあるの?」
「でも、昨日……!」
「勝手に会社資材使ったのは事実よね?」
周囲がざわつく。
部長が険しい顔で歩いてきた。
「カレン・アルフォード。資材の無断使用、および会社財産横領の疑いが出ている」
「ち、違います……!」
「言い訳は聞かん」
書類が突きつけられる。
懲戒調査通知。
カレンの指先が震えた。
周囲の視線が痛い。
誰も助けない。
レイナだけが、静かに笑っていた。
「身の程を知りなさい」
その瞬間。
東屋の柱が、ぎしり、と鳴った。
まるで怒っているみたいに。




