第32話 後日談
結婚式から、二年が過ぎた。
新しい生活は、拍子抜けするくらい、いつも通りに続いていた。初美は保育園の仕事を続け、俺は相変わらず同じ職場に通う。母は変わらず元気で、もの忘れも、体の不調も、これといって見当たらない。令和での母は、若年性認知症を患い、二年ほど入所した末に亡くなっていた。今のところ、そんな兆候は、どこにもない。
もっとも、それで安心しきれるわけでもなかった。結婚式のあの日、頭の中が真っ白になったあの一瞬の正体は、今も分からないままだ。母が元気だということと、あれが何だったのかは、別の話だった。あれ以来、同じことは起きていない。それだけが、今のところの救いだった。
そうして迎えた、四月二十九日。
タイムリープから、今年でちょうど十年になる。
「ちょうど十年、ですね」
夕食の後片付けをしながら、初美が言った。
「ああ」
「今年は、ちゃんと確かめに行きませんか」
「確かめる、って」
「あの日と同じ時間に、コンビニに行ってみるんです。二年前、偶然、あのおじいさんに会ったじゃないですか。あれが、本当にただの偶然だったのか」
言われてみれば、気になっていたことではあった。二年前のあの日以来、何となく避けてきたところもある。
「ただの好奇心か」
「はい。それだけです」
初美は、悪びれもせずそう言った。俺も、似たようなものだった。
———
あの日と同じ時間を見計らって、二人で家を出た。
「なんか、こういうの、探偵みたいですね」
「探偵は、もう少し真剣な顔でやると思うけど」
「失礼な」
軽口を叩きながら歩く道は、十年前と、あまり変わっていなかった。
———
コンビニの駐車場が見える位置まで来ると、少し離れたところで足を止めた。
「本当に、来ると思います?」
「さあな。来なくても、それはそれで一つの答えだろ」
二人で、しばらくそこに立って、駐車場を眺めていた。何をするでもなく、ただ待つだけの時間だった。
———
十分ほど経った頃、一台の車が、駐車場に入ってきた。
「……」
白髪の、あの老人だった。十年前、俺たちを撥ねた、あの車の運転手。車を停め、いつものように、ゆっくりと降りてくる。
「本当に、来ましたね」
「ああ」
二人で顔を見合わせた。何かを確かめられた気はしたが、それが何なのかは、うまく言葉にできなかった。
———
思い切って、近づいてみることにした。
「あの……こんばんは」
声をかけると、老人は少し驚いた顔をして、こちらを見た。
「ああ、この前の。こんばんは」
覚えていてくれたらしい。
「毎年、この時間にいらっしゃるんですか」
「ん? まあ、そうだな。孫の顔を見に、近くまで来た帰りに、ここで買い物していくのが習慣でね」
なんてことのない答えだった。それだけのことだったのだ、と改めて思う。
「そうだったんですね」
「あんたたちも、この辺の人?」
「はい。すぐそこです」
「そうか。じゃあ、また」
老人は、軽く手を上げて、コンビニの中へ入っていった。ただの、近所に住む一人の老人だった。
———
帰り道、二人ともしばらく黙って歩いた。
「なんか、拍子抜けしました」
「俺もだ」
「でも、それでよかった気がします」
「ああ」
あの日の事故も、二年前の再会も、今夜のことも、全部つながっているようで、実は何もつながっていない。ただ、同じ場所に、同じ時間に、それぞれの理由で人が集まっただけのことだった。
それだけのことが、こんなにも、安心できることだとは思わなかった。
———
家に着くと、母が出迎えた。
「あら、おかえり。二人でどこ行ってたの」
「ちょっと、散歩です」
初美が、俺の肩に軽くもたれかかりながら答えた。母は、それを見て、少し嬉しそうに笑っただけだった。
いつも通りの、なんでもないやり取りだった。それが、今はとても、ありがたく思えた。
窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。
明日からも、きっと、同じような毎日が続いていく。
それでいい、と思った。




