第31話 結婚式
結婚式当日は、朝から気持ちのいい秋晴れだった。
控室で身支度をしていると、母が顔を出した。
「支度、進んでる?」
「まあ、なんとか」
タキシード姿の俺を見て、母は少しの間、黙って立っていた。
「お父さんに、見せてあげたかったわね」
「……そうだな」
それだけ言うと、母は目元を軽く拭って、部屋を出ていった。
———
式は、こぢんまりとしたチャペルで行われた。
バージンロードを歩いてくる初美は、衣装合わせの時よりも、ずっと落ち着いた顔をしていた。
誓いの言葉を交わす段になって、司会者が形式的な文言を読み上げ始めた。
「健やかなる時も、病める時も――」
聞き慣れた文句のはずなのに、今、自分のこととして聞くと、重みがまるで違った。
その時だった。
一瞬、目の前の景色が、ひどく遠く感じられた。
自分が今どこにいるのか、隣に立っているのが誰なのか――ほんの一秒か二秒のことだったと思う。だが、その一瞬、頭の中が真っ白になった。
「……耕一さん?」
初美の声で、我に返った。
「大丈夫ですか」
「……ああ、大丈夫だ」
声は、思っていたより落ち着いていた。だが、手のひらに、じっとりと嫌な汗をかいていた。
台風のニュースを思い出せなかった、あの日のことがよぎった。会社の名前を、妻の名前を、忘れていった、あの積み重ね。あれの続きが、今、こんな形で来るのか。
考える時間はなかった。
「誓いますか」
司会者の声に、今この瞬間だけは、はっきりと答えなければならなかった。
「誓います」
自分の声が、震えを押し殺して、まっすぐに響いた。
「誓います」
初美の声も、同じくらいはっきりしていた。
———
披露宴では、思っていたより多くの人が集まってくれていた。
佐藤家からは、初美の母と幸子。松井家の親戚からは、小田さんと幸子。職場からは丸山さんと店長。それから――
「久しぶりです」
声をかけてきたのは、大輔だった。隣には、初詣の日に見た顔ぶれとは違う、今の恋人らしき女性がいる。
「来てくれたのか」
「もちろん。招待状もらったので」
大輔は屈託なく笑った。
「二人とも、幸せそうで良かったです」
あの頃の気まずさは、もうどこにもなかった。
———
挨拶の順番が回ってきて、便箋を取り出した。
「本日は、お忙しい中……」
結局、書き出しはありきたりな文句になった。だが、その先は、自分の言葉で続けた。
「今日、ここにいる俺は、十年前とは別人だと思ってました。でも、今は違う気がします。あの頃の俺が、ちゃんと今の俺に繋がってる。それを教えてくれたのは、隣にいる、この人です」
会場が、少し静かになった。
「これから先のことは、正直、まだ分からないことだらけです。記憶も、体も、この先どうなるか、俺にも分かりません。それでも、隣にいてくれる人がいれば、きっと大丈夫だと、今は思ってます」
拍手が起きた。母が、ハンカチを目に当てているのが見えた。
———
披露宴の合間、控室で二人きりになった時間があった。
「さっき……チャペルで、何かありましたか」
初美が、静かに聞いてきた。誤魔化そうかとも思ったが、やめた。
「一瞬、頭が真っ白になった。お前のことも、自分がどこにいるかも、分からなくなった」
「……」
「怖かったよ、正直」
初美は、しばらく黙って俺の顔を見ていたが、やがて両手で俺の手を包むように握り、体を寄せてきた。
「もし、これから先、そういうことがもっと増えても」
「ああ」
「あたしが、隣で、教えます。何度でも」
「何をだ」
「あなたが誰で、あたしが誰で、今日がどんな日だったか。全部」
その言葉に、詰まっていた息が、少しだけ楽になった。
「情けない話だな、旦那が」
初美の額に、自分の額をこつんと合わせた。
「お互い様です。あたしだって、いつか、令和のことも、今日のことも、忘れるかもしれません」
「それでも、隣にいるのか」
「はい。忘れたら、また一から、教え合えばいいだけです」
初美は、そう言って笑った。強がりではない、まっすぐな笑顔だった。
———
夕方、式のすべてが終わって、控室で一息ついた。
窓の外は、夕焼けで赤く染まっていた。
七年前、コンビニ帰りに事故に遭って、目が覚めたら十年前だった、あの日から、ここまで来た。
あの一瞬の空白が、タイムリープの代償の続きなのか、それとも、母から受け継いだ何か別のものの始まりなのか、今はまだ分からない。この先、はっきりする日が来るのかどうかも、分からない。
それでも、今日という日があったことだけは、消えない。
たとえこの先、何もかも忘れる日が来たとしても、その時はまた、隣にいる誰かに、一から教えてもらえばいい。
その誰かが、今は確かに、隣にいる。
「疲れたか」
「はい、でも」
初美は、ウェディングドレス姿のまま少し伸びをしてから、しばらく黙って、夕焼けに染まる窓の外を一緒に見ていた。
「幸せです、すごく」
「そうか」
「はい」
窓の外で、秋の夕焼けが、静かに色を深めていった。
――子供のことも、記憶のことも、令和に戻るか戻らないかということも、今すぐに答えの出るものではない。
それでいい。
答えの出ないものを抱えたまま、それでも隣にいると決めた二人が、ここにいる。




