第30話 挨拶
十月に入り、結婚式まで、残り二週間ほどになった。
夜、机に向かって、結婚式の挨拶文を書こうとしていた。だが、書き出しの一文から、まったく進まなかった。
「本日は、お忙しい中……」
口に出してみて、すぐに違うと思った。誰かの結婚式で聞いたような、どこかで見たような文句ばかりが浮かんでくる。
柄にもなく、何時間も机に向かって、白紙のままの便箋を睨んでいた。
———
行き詰まって、居間にいる初美に声をかけた。
「なあ、前に書いた、あのリスト、まだ持ってるか」
「リスト?」
「令和の記憶を書き出した、あれだよ」
初美は少し驚いた顔をしたあと、部屋の奥から古びた紙を持ってきた。丁寧に折り畳まれた、あの日のリストだった。
———
居間のテーブルに、肩が触れるくらいの距離で並んで座り、久しぶりにそのリストを広げた。
「懐かしいですね」
「ああ」
書かれている項目は、当時よりもさらに少なくなっているように見えた。それでも、そこに残っている文字だけは、はっきりと読み取れた。
「令和の年号、二〇二六年まで確認済み」「消費税、十パーセント」――そんな断片的な記述の合間に、初美の字で「NVIDIAとTeslaの株」という、当時の俺の下心も残っていた。
「これ、結局買わなかったんですよね」
初美が、その一行を指で突きながら笑った。
「そうだったな。すっかり忘れてた」
「耕一さん、そういうの全然向いてないですもんね」
「うるさいな」
二人で顔を見合わせて、思わず笑った。
———
「令和のことは、ほとんど覚えてないんですよね、もう」
「ああ」
「でも、ここに戻ってきてからのことは、はっきり覚えてます」
初美は、リストの余白を指でなぞりながら、続けた。
「コンビニの前で声かけられたこと。公園で、これからのこと話し合ったこと。お父さんのこと。……全部」
「俺もだ」
そう言って、隣に座る初美の肩を、軽く抱き寄せた。
令和の記憶は、もうほとんど輪郭だけになっている。だが、この十年前の世界で積み重ねてきたものは、一つも薄れていない。むしろ、日を追うごとに、色濃くなっている気さえする。
———
その夜、もう一度、便箋に向かった。
さっきまでとは、違う言葉が出てきた。
「今日、ここにいる俺は、十年前とは別人だと思ってました。でも、今は違う気がします。あの頃の俺が、ちゃんと今の俺に繋がってる。それを教えてくれたのは、隣にいる、この人です」
書きながら、少し照れくさくなった。だが、消さずにそのまま残すことにした。
気配に気づいたのか、初美が後ろから覗き込んできた。
「書けたんですか」
「ああ、なんとか」
「見せてくれないんですか」
便箋を慌てて隠すと、初美が唇を尖らせた。
「本番までのお楽しみだ」
「ずるいです、それ」
「その方が、感動するだろ」
「自分で言います、それ?」
初美は不満げな顔をしながらも、それ以上は聞いてこなかった。かわりに、何も言わずに、机の隅に置いてあった俺の湯呑みへ、お茶を注ぎ足していった。
結婚式まで、あと二週間。
これまでのすべてを抱えたまま、俺たちは、その日を迎えようとしていた。




