第29話 衣装合わせ
九月に入り、結婚式の衣装合わせのため、二人で式場を訪れた。
「わあ……」
控室に現れた初美は、真っ白なウェディングドレス姿だった。
「どうですか」
「……似合ってる」
それ以上、うまい言葉が出てこなかった。俺が黙っていると、初美は照れくさそうに、くるりとその場で一回転してみせた。
付き添いで来ていた母が、隣で目元を押さえていた。
「お母さん、まだ泣くの早いですよ」
「いいのよ、これくらい」
———
俺の番になり、タキシードに着替えて鏡の前に立つと、なんとなく落ち着かない気分になった。
「令和で着た時とは、違う感じですか」
初美に聞かれて、少し考えた。
「あの時は、正直、あんまり覚えてない。緊張してた記憶しかないな」
「そうなんですか」
「今回のほうが、なんか、実感がある」
自分でも意外な答えだったが、それが正直な気持ちだった。
———
式場を出て、帰りの車の中で、ふと結婚式の挨拶文について考えていた。何を話すか、まだ何も決めていない。
昔の結婚式のことを、少し思い出そうとしてみた。
――あの時の妻の名前、何だったっけ。
考えて、固まった。
顔は、もうずっと前から思い出せなくなっていた。だが、名前まで出てこなくなったのは、初めてだった。
「どうしました?」
助手席の初美が、横顔を覗き込んでくる。
「いや……前の嫁さんの名前、思い出せない」
「……マジですか」
初美は、少し驚いたような顔をしたあと、思わず噴き出した。
「笑うところじゃないだろ」
「すみません。でも、なんか、耕一さんらしいなと思って」
———
「怖くないんですか、それ」
「前だったら、怖かったと思う」
「今は?」
信号で車が止まった隙に、初美がこっちを覗き込んでくる。
「今は……もう、あっちの人生じゃない、って感じがする」
うまく言えている自信はなかった。だが、それが一番近い表現だった。
「令和の記憶は、もう、俺の中で終わったことになってるんだと思う」
「終わった、こと」
「ああ。今の人生は、こっちだから」
初美は、しばらく黙って前を見ていたが、ふいに、俺の手の甲に自分の手を重ねてきた。
「なんか、耕一さんらしいですね、それ」
「そうか?」
「はい。ちゃんと、前を向いてる感じがします」
信号が青に変わって、慌てて手を離した。
「危ないので、運転に集中してください」
「お前がくっついてきたんだろ」
初美は、悪びれもせず笑っていた。
———
帰宅して、控室で撮ってもらった写真を、母に見せた。
「あら、いいじゃない、二人とも」
スマホの画面を、三人で覗き込む。白いドレス姿の初美と、タキシード姿の俺が並んで写っていた。
「これ、あたしのスマホにも送ってください」
「いいけど、待ち受けにするなよ」
「なんでですか。しますよ、絶対」
令和の記憶は、また一つ、静かに閉じていった。
それでも、今、目の前にあるものだけは、はっきりと形を保っている。
結婚式まで、あと一か月。




