第五十二話 『ちち』『はは』 『しょうごさま』『ちぐささま』
肝心の「言葉」の習得だが
それは初めに祥吾が想定していたのとは
少し違った方向へと進んでいった
祥吾としては
異世界の公用語である『共通語』をマスターしなければと考えていたが
日常の会話については、日本語を使いたいと
きな子とステラの方から言い出したのだ
きな子は以前から日本語に興味を示していたが
いまだにこの屋敷周辺を「神様の国」だと
固く信じ込んでいるステラも
祥吾たちの話す言葉を、なんとしても言葉を学び
神様や祥吾たちと直接言葉を交わしたいと熱望したのだ
そこで、まずは二人に日本語の日常会話を教えることを生活の中心に据え
それとは別途、祥吾、千草、きな子の
三人が、ステラを先生にして共通語の習得時間を設けるという形に落ち着いた
きな子とステラは
スポンジが水を吸うように、日本語を習得していった
祥吾の書斎や蔵には、書物もたくさんあり
日常会話だけでなく、読み書きにまで及んだ
縁側にちゃぶ台を出し
あいうえおの文字盤を前にして
不器用ながらも一生懸命に言葉を紡ぐ二人
それは単なる学習意欲だけでなく
祥吾や千草、そして神爺と、少しでも早く
自分の言葉で直接話したいという純粋な気持ちの表れのようであった
こうして、日本語の日常会話は、思いのほか早く
生活に支障がないレベルまで身についていった
そして、それに並行して、教え、教えられる関係ができたことで
祥吾たちの共通語の習得スピードも早くなっていった
日本語の学習が順調に進み
四人の間で言葉の壁が少しずつ取り払われていく中で
ひとつだけ厄介な問題が浮上した。
祥吾と千草を「どう呼ぶか」という問題である
居間に広げたちゃぶ台を囲む中、きな子もステラも
ごく自然な響きで祥吾を「だんなさま」、千草を「おくさま」と呼ぼうとした
身寄りのない彼女たちにとって
自分たちを庇護してくれる二人をそう呼ぶのは、あまりにも当然のことだったのだ
しかし、祥吾も千草も、これには揃って難色を示した。
「待て待て、二人とも」
祥吾は、困ったように眉を下げた。
「その『だんなさま』『おくさま』という呼び方は、やめてくれないか」
「えっ……? どう、して、ですか?」
きな子が不思議そうに小首を傾げる
ステラに至っては、不興をかったのかと肩をビクッとすくませた
「二人とも、この屋敷の使用人じゃない
『家族』なんだ
だから、そんな呼び方はしないでくれ」
祥吾が真剣な眼差しで告げると、千草も頷いてから、ステラときな子の手をそっと握った
「あなたたちからそんな風に呼ばれると、寂しいわ」
だが、主従の呼び方をやめるとして
では『どう呼ぶか』となると
これがまた非常に難しい問題だった
祥吾と千草の胸の内には
身寄りのないきな子に対し
自分たちを「親の代わり」と思って頼ってほしいと思っていた
とはいえ、いきなり
「父上、父様」「母上、母様」
と呼ばれるのも気恥ずかしい
腕を組んでうんうんと唸る祥吾と
頬に手を当てて頭をひねる千草
悩みに悩んだ末、二人がきな子に提案したのは――
「『ちち』? 『はは』?」
「ああ。漢字ではなく、ひらがなで柔らかく『ちち』『はは』だ」
最初は「ちちうえ」「ははうえ」という案も出たのだが
やはり「うえ」が付くと、武家のような堅苦しさと
目に見えない距離感が生まれてしまう気がして
ええいと取っ払ってしまったのだ
結果として「ちち、はは」という
なんとも中途半端で落ち着かない決着にはなったものの
「……ちち。はは」
きな子が、照れくさそうにはにかみながら
その言葉を口にした瞬間
祥吾と千草の胸に、言葉にならない温かな愛おしさが満ちて
二人の顔がデレデレに崩れた
しかし、この決着が、もう一人の同居人には全く通用しなかった
「あ、あ、あたしには無理ですっ!!」
ステラが、激しく首を横に振っていた
「創造神様と同じ方に向かって
か、か、家族なんて……
お、恐れ多いです-っ!!」
ステラの中では、いまだに祥吾と千草は
人間界に降り立った神にならぶ存在である
そんな存在を、一介の獣人である自分が家族のように呼ぶなど
絶対にあり得ないという頑なな態度だった
怯えた獣のようにブルブルと震え
今にも土下座しそうな勢いのステラを見て
祥吾は深いため息をついた
「はぁ……。分かった、分かったから」
祥吾が額を押さえて降参する
「では、ステラからの呼び方は『ショウゴさま』『チグサさま』ということで手を打とう」
「……お、お名前で、よろしいのですか?」
「だんなさまよりはずっといい
頼むから、それで慣れてくれ」
「ショウゴさま……チグサさま……」
ステラは、まるで神聖な呪文でも唱えるかのように
その名前を恭しく復唱し、ほっとしたように胸を撫で下ろしていた
そして、ふいにステラは居住まいを正し、ひどく遠慮がちに
しかしまっすぐな目で祥吾と千草に願い出た
「ショウゴさま、チグサさま
……いちど、町へ戻っても、よろしいでしょうか」




