第三十八話 再生の産声
深い絶望の底で伏せるきな子の視界が
不意に、水面に落ちた波紋のように大きく揺らいだ
冷たい泥の感触も、肌を刺す茨の痛みも
すべてがまぶしい光の中に溶けていく
『――戻れ、祥吾! 意識に引かれるな!』
遠くから響く神爺の鋭い声が
命綱のように祥吾の意識を強く引き上げた
激しい浮上感
祥吾は、ゆっくりと重い瞼を開けた
陽のさす厩舎
そこは間違いなく、祥吾が生きる現実の世界だった
祥吾の頬には生温かいものが幾筋も伝い落ち
心臓は早鐘のように打ち鳴らされている
彼自身の身体には何の傷もないというのに
魂の奥底がひりひりと痛んでいた。
「……祥吾、無事か」
千草の肩の上で、神爺が無事に帰還した祥吾を見て深く安堵している
その千草は、両手で口元を覆い、声なき嗚咽を漏らしていた
彼女はきな子の過去を知ったわけではない
だが、祥吾の目から止めどなく溢れる涙と、
膝を抱えて丸くなったきな子の、尋常でない震え
そして、意図せずにきな子が放つ、切実な感情の震えが
千草の心を大きく揺さぶっているようだった
千草の手が、今までにない強い力で祥吾の手をにぎる
祥吾はその手を、同じように強く握りしめる
「心配かけた、大丈夫だ」
祥吾は、千草に力強く肯くと、ゆっくりと視線をきな子に向けた
きな子は、小刻みに震え
両腕を自身の頭を庇うように強く抱きしめている
彼女には分かっているのだ
祥吾が自分の心の奥底を
――忌み嫌われた「汚れた血」という存在で
そのために、村を追い出された過去を
すべて視てしまったということを
(また、捨てられる。今度こそ、本当に独りぼっちになる――)
きな子の小さな身体から立ち昇る
その絶望の思念が
繋がったままの意識の余韻を通じて
祥吾の胸に痛いほど突き刺さる
祥吾は無言のまま、ゆっくりと膝をついた
気配に気づいたきな子が、ビクッと大きく肩を跳ねさせた。
以前と同じ覚悟で、きな子はぎゅっと目を閉じ、身を固くした
だが、彼女にかけられたのは、痛みでも、冷たい言葉でもなかった
祥吾の大きく、温かい両腕が
きな子の細く震える身体を
すっぽりと包み込んだ
「……っ!?」
きな子は息を呑み、硬直した
祥吾は、その小さな身体を自分の広い胸の中へと
強く、けれど優しく引き寄せた
「大丈夫だ」
祥吾の口から紡がれたのは、おだやかではあるが、強い意志を帯びた声だった
「汚れてなんかいない」
きな子は、祥吾の顔がすぐそばにあることに気づき
信じられないものを見るように恐る恐る見上げた
その瞬間、きな子の強い願いが、能力を勝手に発動させ
祥吾の心の奥底へと侵入する
祥吾の中には、エルフたちがきな子に向けていた
『軽蔑』や『嫌悪』は一欠片もない。
あるのは、きな子を虐げた者たちへの静かで激しい怒りと――
何があってもこの小さな命を守り抜くという
揺るぎない覚悟だけだった。
「お前は、一人じゃない。ここがお前の家だ。ずっと、ここにいていいんだ」
祥吾の胸の奥から響く鼓動と
一切の嘘偽りがない温かい心の声が
侵入したきな子の魂に直接流れ込んでいく
誰からも与えられることのなかった絶対的な肯定。
縛り付けられていたきな子の心の糸が
ふつりと音を立てて切れた。
「ああ……、あ、あああぁぁぁ……っ!」
きな子の小さな口から、
大きな声が溢れ出した。
声にならない嗚咽。ぽろぽろと零れ落ちる大粒の涙が
祥吾の服の胸元を次々と濡らしていく
きな子は祥吾のシャツを小さな両手で千切れるほどに強く握りしめ
全身で泣きじゃくった。
「……きな子……っ」
千草も背後から二人に歩み寄り
きな子の小さな背中を、愛おしそうに何度も、何度も撫でる
傍らでは、疾風が優しく首を下げ
きな子の震える背中にその大きな鼻先をすり寄せている。
厩舎の中に、きな子の泣き声が響き続ける。
それは悲しみの声ではなく、新しき魂の産声だった。
冷たく閉ざされたエルフの森の記憶は
祥吾と千草が与える圧倒的な熱量の中に
ゆっくりと、確実に溶けて消えていこうとしていた。
祥吾たちは、きな子が泣き止み、落ち着くまで待った
他の家畜、山羊のハナ、鶏のタマたち、牛のポチたちも
心配そうに厩舎をのぞきに来ている
皆からの心配げな意識を、感じ取ったのか
きな子は少し恥ずかしそうに涙を拭いて、顔を赤くした
「それでは、屋敷に帰りましょうか」
千草が、祥吾に声をかけ、きな子の手を取る
そのためらいのない自然な動きに、祥吾は千草の覚悟を感じた
「そうだな、きな子、帰るぞ」
同じように、祥吾がきな子のもう片方の手を握る
きな子は、最初、握られた二人の手を、おずおずと見てから
千草、祥吾を見上げた
そこには、何の混じり気のない笑顔があった
きな子は大きく肯き、二人と共に足を踏み出した
しっかりと、力強く踏みしめて
その歩幅に、二人が合わせる
屋敷に向けて三人が並んで歩く
その後ろを、疾風が、アズキが、ハナが、タマやポチたちがついて行く
神爺はきな子の肩に、ちゃっかり乗っている。
傾いた日が赤みを帯びて彼らを照らす
それは、祥吾にとって暖かいのに何故か涙が出そうになる光景だった




