第71話 正式所属の条件と、押せない送信ボタン
週末の午後。
私は、都内にあるモデル事務所の明るいミーティングルームで、担当の女性スタッフと向かい合って座っていた。
「――ということで、氷室さんにはぜひ、うちの事務所に正式に所属して、継続的に活動していってほしいと考えています」
テーブルに置かれたのは、正式な所属契約に関する書類だった。
先日公開されたタイアップ広告は、事務所の予想を上回るほどの反響だったらしい。それ以降、単発の仕事を数件こなし、ついに事務所から正式なオファーを受けたのだ。
「もちろん、氷室さんはまだ高校生ですから、学業優先が絶対条件です。それに、今続けている個人的な活動もあると聞いています」
担当者さんは、優しく微笑みながら言葉を続けた。
「今の高校生活やこれまでの活動を全部捨ててモデル一本に専念しろ、という話ではありません。最初は月に何本まで、と無理のないペースを決めて、氷室さんの今の生活を尊重しながら両立できるスケジュールを模索していきましょう」
それは、驚くほど好意的で理想的なオファーだった。
私が今の生活や、自分にとって大切な活動を理由に諦めなくてもいいように、事務所側が最大限の配慮をしてくれているのが痛いほど伝わってくる。
誰も、私の邪魔をしていない。
学業との両立もできる。今の生活も尊重される。
普通なら「ありがとうございます、頑張ります」と喜んでサインする場面だろう。
……なのに。
「……ありがとうございます。でも……」
私の喉の奥は、カラカラに干からびていた。
「少しだけ、お返事を待っていただいてもいいでしょうか」
私は、震えそうになる声を必死に押し殺し、なんとかそれだけを絞り出した。
担当者さんは嫌な顔一つせず、「もちろんです。ご家族ともよく話し合って決めてくださいね」と優しく見送ってくれた。
***
帰りの電車の中。
私は、窓の外を流れる夕暮れの景色をぼんやりと眺めていた。
(……私って、本当に面倒くさい人間ね)
事務所の人は「両立できる」と言ってくれた。
でも、本当の問題はそこじゃない。
モデルの仕事を受ければ受けるほど。
レッスンに時間を割けば割くほど。
私が湊のそばにいられる時間は、確実に減っていく。
一番近くで湊の音を聴いて。一番に湊の変化に気づいて。最古参ファンとして、誰よりも全力で推しを支える。
それが、ずっと私の日常だった。
でもモデルを続ければ、その時間の一部を『自分のため』に使うことになる。
(…………)
そんな思いに囚われているうちに、電車の走行音が急に遠くなり、私の意識は深い深い精神世界へと沈んでいく。
――緊急脳内会議、発令。
『議長! 状況を整理します!』
脳内雪乃A(インテリ眼鏡着用)が、ホワイトボードをバンバンと叩く。
そこには大きく【議題:モデル事務所への正式所属について】と書かれていた。
『事務所側は学業優先を明言! 現在の生活との両立にも最大限配慮! さらに雪乃本人にも継続意思あり! 以上を総合すると――』
Aちゃんが眼鏡をクイッと押し上げる。
『合理的判断としては、所属を受ける一択です!』
『異議ありぃぃぃぃぃぃっ!!』
ガタンッ!!
脳内雪乃B(限界オタク・両手にペンライト)が、椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
『モデルのレッスン!? 撮影!? 地方ロケ!? そんなものに時間を割いてたら、湊成分の摂取時間が激減するじゃないですかぁぁぁ!!』
『地方ロケまで話は進んでません!』
『今はなくても将来的にはあるかもでしょ! その間に湊が「雪乃いなくても全然平気だな」とか思い始めたらどうするんですかぁぁぁ!?』
『飛躍しすぎです!』
『飛躍じゃない!! この前だって私がいなくてもレッスン普通にこなしてたし、配信の確認も事務所の人たちと進めてたし! 推しが自立していく速度が速すぎるんですよぉぉぉっ!!』
Bちゃんが血の涙を流しながら机に突っ伏す。
『嬉しい! 推しの成長はめちゃくちゃ嬉しい! でもそれとこれとは話が別ぅぅっ!! 私の存在意義が!! 最古参の特等席がぁぁぁっ!!』
『Bちゃん、少し落ち着いて!』
『落ち着けるかぁぁぁ!! このままじゃ最終的に「ずっと応援してくれてありがとう、あとは俺一人で大丈夫だから」って卒業証書渡される未来が――!』
バァァァンッ!!
次の瞬間。
会議室のドアが吹き飛んだ。
脳内雪乃C(ヤンデレ・瞳のハイライト消失)が、巨大なチェーンソーを引きずりながら入ってくる。
『……解決策、簡単』
『Cちゃん!?』
『湊を改造する! 私なしでは何もできなくすればいいだけ』
『な、何を!?』
『靴紐を結ぶところから食事、着替え、ギターの弦交換まで、すべて私が代わりにやる。自力で生存できない身体にすれば、私は一生必要とされる』
『それ、介護じゃないですか!!』
『じゃあ、最終手段として両腕を――』
『物理的に必要とされる方向へ持っていくなぁぁぁっ!!』
――脳内会議、開始三分で崩壊寸前。
現実の私は電車内で、無意識のうちにこめかみを押さえていた。
『……でも』
ぽつりと呟いたBちゃんの声に、会議室が静かになった。
『モデル……やりたいんでしょ?』
『…………』
Aちゃんが眼鏡の位置を直す。
『……少なくとも、本人の意思としては、そのようですね』
『カメラに切り取られた自分の感情が誰かに届いた時……嬉しかったんでしょ?』
『…………』
『もっと上手くなりたいって、思ってるんでしょ?』
誰も答えない。
答えなくても、分かっていた。
Cちゃんのチェーンソーのエンジン音さえ、いつの間にか止まっている。
『……じゃあ、モデルを続けたら』
Bちゃんが、握っていたペンライトをゆっくり下ろした。
『湊は、どうなる?』
Cちゃんの一言に、脳内の会議室が、完全に静まり返った。
Aちゃんも。
Bちゃんも。
Cちゃんでさえも。
誰も、何も言わなかった。
(私が自分のやりたいことを追いかけている間に……湊は、私がいなくてもどんどん前へ進めるようになる)
それが、怖い。
湊に愛されていることは分かっている。
必要とされなくなることと、好きじゃなくなることが同じではないことも。
頭では、ちゃんと分かっている。
なのに心のどこかでは、まだ思ってしまう。
(私が湊の役に立てなくなっても……それでも、ずっと隣にいていいの?)
***
自室に戻った私は、ベッドの上に座り、重い指先でスマホを操作した。
担当者さん宛に、新規メッセージを作成する。
早く断ってしまおう。
そうすれば、また湊の隣に―—湊の音を浴びながら何気ないことに幸せを感じる普段通りの日常に戻れる。不安も、孤独も、全部なくなる。
私は、余計な感情を排除して、機械的に文章を打ち込み始めた。
『本日はお時間をいただき、ありがとうございました。
大変光栄なお話ですが、正式な所属の件は、辞退させていただきたく存じます。』
そこまで打って、私は小さく息を吸い込んだ。
『私には向いていませんでした。学業と、これまでのサポート活動に専念します。』
打ち終わった文面を見つめる。
あとは、送信ボタンをタップするだけだ。これを押せば、すべてが終わる。私の身勝手な迷いも、湊に捨てられるかもしれない恐怖も。
右手の親指を、青い送信ボタンへと近づける。
――しかし。
親指は、画面に触れる数ミリ手前で、ピタリと止まってしまった。
(……嘘)
スマホを持つ手が、小刻みに震え始める。
『私には向いていませんでした』
その一文が、ナイフのように私の胸を突き刺した。
(……ほんとにそう思ってる?)
向いているかどうかなんて、まだ分からない。
カメラの前で自分の感情を表現するのは、怖くて、難しくて、全然上手くいかなくて。
―—でも。
『できるようになりたいです』
あの日、撮影してくれたカメラマンへ、自分の口でハッキリと告げた言葉が蘇る。
もう一度、やりたいと思った。
もっと上手くなりたいと思った。
湊に頼ることなく自分の力で、カメラの向こうにいる誰かに私の感情を届けたい。
誰かの影としてではなく、『氷室雪乃』としてスポットライトの中に立ってみたいと思った。
それだけは、絶対に嘘じゃない。
「……っ」
私はスマホの画面を伏せ、ベッドの上にうずくまった。
モデルをやりたい。
でも、湊に必要とされなくなるのは嫌だ。
どちらも手放したくない。
(……そんなの、欲張りすぎるよね)
湊のための時間を減らして、自分のやりたいことまで追いかけて。それでも今までと同じように愛してほしいなんて。
そんな都合のいいことを願っていいのか、私には分からなかった。
スマホを胸に強く抱きしめる。画面には、まだ送られていない辞退の文章が残っている。
消すことも。
送ることも。
今の私には、できなかった。




