第70話 限界オタクの誤解(私がいなくても)
「……ただいま」
誰もいない部屋に向かってそう呟き、私はベッドの上に力なく倒れ込んだ。
瀬名さんとのタイアップ撮影を終え、心身ともにクタクタだった。
カメラの前で表情を作ることには、少しずつ慣れてきた。スタッフさんにも褒められるようになったし、ブランドのSNSアカウントでもメイキング動画が先行して公開され、大きな反響を呼んでいるらしい。
(……疲れた)
私はベッドにうつ伏せになったまま、スマホの画面をタップし、メッセージアプリのトーク画面を開いた。
『今日の撮影、無事に終わったよ。湊もレッスンお疲れ様』
私が送ったそのメッセージに、数分後、湊から返信が来た。
『お疲れ。メイキングの動画見たよ。いい感じに撮れてたじゃん』
いつも通りの、短い返事。
私が心のどこかで期待していた言葉は、ひとつもなかった。
(…………そっか。……そうだよね)
私はスマホの画面を伏せ、深く息を吐き出した。
湊は、私が瀬名さんと楽しそうに笑い合っている動画を見ても、怒りもしなければ、拗ねることもなかった。
私が仕事で頑張っていることを、ただ純粋に認め、「いい感じだった」と背中を押してくれた。
それは、私の新しい挑戦を理解し、尊重してくれる、完璧な彼氏としての対応だ。
もちろん、本気で怒られたいわけじゃない。
仕事相手に嫉妬して、モデルの仕事をやめろなんて言ってほしいわけでもない。
でも――。
(少しくらい……寂しいって、思ってほしかったな)
私が、自分の知らない場所へ行くことを。
自分以外の誰かと、新しい時間を積み重ねていくことを。
ほんの少しだけでも、惜しんでほしかった。
(……湊が私のことを愛してくれていることは、わかってる)
配信でアンチの言葉に傷ついた時も。
事務所の大人たちから、私を活動の外へ置く条件を提示された時も。
湊は何度も、私が必要だと、私と一緒にいたいと証明してくれた。
あの不器用で真っ直ぐな彼が、私のことを適当に扱ったり、心変わりしたりするような人じゃないことくらい、私が一番よく知っている。
(……でも)
胸の奥で、ドロドロとした黒い不安が、静かに渦を巻き始めていた。
(好きって気持ちだけで……隣にいる理由になるの?)
私はこれまでずっと、湊にとって『必要な人間』でありたかった。
一番近くで湊の音を聴いて。
配信の準備を手伝って、アンチから守って。
誰よりも早く、湊の異変に気づく。
『最古参ファン』であり、『専属マネージャー』であり、『湊の音の理由』であること。
その『役割』を果たすことこそが、私が湊の隣にいるための『資格』なのだと、どこかでずっと思っていた。
けれど今、状況は少しずつ変わってきている。
私が撮影で顔を出せない日でも、湊は自分で事務所のレッスン課題をこなしている。
配信関係の確認だって、私がその場にいなければ、事務所のスタッフさんと相談しながら進められるようになった。
バンドだって、翔太くんや澪と一緒に、自分たちで考えて前へ進んでいる。
私がいなくても、湊はちゃんと歩いていける。
それは、喜ぶべきことだった。
少し前まで、ギターを辞めようとしていた湊が。
人前に出ることを避けていた湊が。
今は、自分の足で新しい世界へ進んでいる。
本来なら、一番近くで応援してきた私にとって、これ以上ないほど嬉しいことのはずなのに。
(湊は、私が自分の知らない世界へ行くことを、こんなに自然に受け入れられるんだ)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
湊も成長している。
そして私も、湊の隣だけではない場所へ、一人で歩き始めている。
それはきっと、互いにとって正しい変化なのだ。
(でも……私が“必要だから”隣にいるんじゃなくなったら)
私は、スマホの黒い画面に映る自分の顔を見つめた。
(私は、何を理由にして……湊の隣にいればいいの?)
『最古参ファン』でも。
『専属マネージャー』でも。
『湊の音の理由』でもない。
ただの『氷室雪乃』になった時――。
それでも私は、湊の隣にいていいのだろうか。
(……湊が私を必要としなくなることと、湊が私を好きじゃなくなることは、同じじゃない)
そんなこと、頭ではわかっている。
湊は、私がマネージャーとして何もできなくなったからといって、私を捨てるような人じゃない。
わかっている。
わかっている……はずなのに。
(……怖い)
私は膝を抱え込み、ギュッと身体を小さくした。
必要とされなくなった私に、愛される価値があるのだろうか。
そんなことは、湊に聞けばいい。
『私が何の役にも立てなくなっても、隣にいていい?』
そう聞けば、きっと湊は呆れた顔をしながら、「当たり前だろ」と言ってくれる。
その答えまで、ちゃんと想像できるはずなのに――。
(……聞けない)
答えを疑っている訳じゃない。
その言葉を聞かなければ安心できない自分自身が、たまらなく怖かった。
湊が音楽の世界で自立していくこと。
私自身のモデルとしての仕事が、少しずつ形になっていくこと。
二人がそれぞれ別の場所で、新しい世界を広げていくこと。
全部、嬉しいことのはずなのに。
(……私、どうしたらいいの)
誰にも言えない本音を抱えたまま、私は暗くなったスマホの画面へ額を押しつけた。
ほんの少し前まで、あんなに近かったはずの湊が。
今夜だけは、ひどく遠く感じられた。




