第72話 両立できないのは誰のせい?
翌日の昼休み。
にぎわう教室の中で私――氷室雪乃は、自分の席でスマホの画面をジッと見つめていた。
表示されているのは、昨夜作成し、消さずに残ったままになっている『辞退メール』。
一晩経っても、まだ送信ボタンは押せていなかった。
(……早く送らなきゃ。迷ってる場合じゃないのに)
親指を画面に近づけては離し、深く、重いため息を吐き出す。
そんなことを繰り返していると、ふいに隣の席の椅子がガラッと引かれた。
「あんた、さっきからずっとスマホと睨めっこして。何やってんのよ」
パンをかじりながら座った結城澪が、私のスマホの画面をチラリと覗き込んだ。
私は慌てて画面を隠そうとしたが、澪の目はすでにメールの文面を的確に捉えていた。
「……へえ。正式所属、辞退するのね」
「っ……ええ、そうよ」
私は、動揺を悟られないように腕を組み、ツンと顔を背けた。
「昨日、ちゃんと考えたの。私にはやっぱり向いてないし、学校と湊のマネージャー業に専念するべきだって」
「ふーん」
澪は、少し乱暴にパンをちぎって口に運びながら、私を見透かすような冷ややかな目を向けてくる。
「あんたさ。それ、本当に影山くんのため?」
「……何よ。当たり前じゃない」
「そう? 私にはそうは見えないけど」
澪はパンを置き、真っ直ぐに私の目を見た。
「モデルを続けたせいで、影山くんに必要とされなくなるのが怖いから辞めるんじゃないの?」
――ドクンッ。
心臓を、鋭い氷の刃で一突きにされたような感覚だった。
「っ……ち、違うわよ! 私はただ、今まで通り湊のそばにいたいから……!」
「図星ね」
私が慌てて反論するのを、澪は無慈悲に切り捨てる。
「事務所は、高校生のあんたにモデル業に専念しろなんて、そんな無茶言わないわよね?」
「それは……そうだけど」
「影山くんも、あんたに『モデルをやるな』なんて一度も言ってないわよね? むしろ、背中を押してくれたはずじゃない」
「……」
「事務所も、彼氏も、誰もあんたの邪魔なんてしてない」
澪は、私の机に置かれたスマホをトントンと指先で叩いた。
「じゃあ、なんで逃げようとするの? 誰が『両立できない』って決めたの?」
何も言えなかった。
反論の言葉を探そうとしても、頭の中が真っ白になって何も出てこない。
「……あんたでしょうが」
澪の静かな声が、逃げ場のない真実として私の胸に突き刺さった。
「あんたが勝手に罪悪感を抱えて、怖くなって、その怖さを『影山くんのため』って理由に置き換えてるだけじゃない。……辞退して、本当に後悔しないの?」
「……っ」
私は、俯いてギュッと唇を噛み締めることしかできなかった。
そんな私を見て、澪は小さくため息をつき、立ち上がった。
「あんたの人生よ。そのメールを送る前に、ちゃんと自分の口で、本人と話しなさい」
澪はそれ以上何も言わず、教室を出て行ってしまった。
残された私は、机の上のスマホを見つめたまま、ただ震える手を握りしめていることしかできなかった。
***
昼休みの旧校舎の裏庭。
俺は、自販機で買った缶コーヒーを片手に、ベンチで一人ぼんやりと空を見上げていた。
(……俺、何やってんだろうな)
スマホを開けば、SNSには雪乃とイケメンモデルが背中合わせで写っている投稿が流れてくる。
それを見るたびに、胸の奥でドス黒い嫉妬と寂しさが渦を巻く。
でも、雪乃の新しい挑戦を邪魔したくない俺は『物分かりのいい彼氏』を演じて、平気なふりをして。
『お疲れ。いい感じじゃん』なんて薄っぺらいメッセージを送ることしかできない。
「こんなところで何いじけてんのよ、あんたは」
不意に、頭上から声が降ってきた。
見上げると、結城澪が腕を組んで俺を見下ろしていた。
「……いじけてねえよ。次のレッスンの課題を考えてただけだ」
誤魔化すようにコーヒーをすすると、澪は大きなため息を吐いた。
「あんた、いつまで物分かりのいい彼氏ぶってるつもり?」
「……は?」
「雪乃が今、何しようとしてるか知ってる? あいつ、あんたを理由にして、せっかく見つけた『自分がやりたいこと』を手放そうとしてるわよ」
「はぁっ? 手放すって、モデルの仕事を?」
俺は弾かれたようにベンチから立ち上がった。
「なんでだよ! あんなにいい顔で笑ってて、結果だって出てるのに! 俺はあいつの邪魔なんか……」
「そうね。してないわね」
澪はそこで一度言葉を切った。
「でも、だからって『俺は何も悪くない』で終わるつもり?」
「……何が言いたいんだよ」
「あんた最近、雪乃に何か隠してるでしょ」
澪の真っ直ぐな瞳が、俺の心の奥底を見透かしてくる。
「俺は……」
「雪乃が何を考えてるかは、自分で聞きなさい。私の口から言うことじゃない」
澪はそう言って、俺を真っ直ぐ睨んだ。
「でも、あんたもちゃんと本音を晒しなさい。あの子にだけ重い荷物を背負わせるつもり?」
「……」
「格好悪くてもいいから、半分持ってあげなさいよ」
澪はくるりと背を向け、そのまま校舎へと戻っていった。
残された俺は、手の中の缶コーヒーをギュッと強く握りしめた。
俺も、逃げていた。
嫉妬する自分が惨めで、格好悪くて。だから『雪乃のため』なんて綺麗な建前を作って、本音を隠していた。
そして雪乃も、『俺のため』という理由をつけて、自分のやりたいことを手放そうとしている。
(……同じじゃねえか)
お互い相手を大事にしてるつもりで、一番言わなきゃいけないことを隠していた。
「……ふざけんなよ、俺」
手の中の缶コーヒーが、わずかにへこんだ。
もう、平気なふりなんてやめだ。
格好悪くても、陰キャの嫉妬丸出しでもいい。
今度こそ、俺の口から全部言う。
俺は、雪乃がいるはずの教室へ向かって、全力で駆け出した。




