第68話 減っていく時間と、陽キャの気遣い
数日後の放課後。
私は母と一緒に、先日の撮影でお世話になったモデル事務所を訪れていた。
「先日の広告、かなり反響が出ています」
向かいの席に座る担当者が、タブレットの画面をこちらへ向ける。
そこには、公開された制服ブランドの広告と、その後に寄せられた問い合わせの一覧が並んでいた。
「すでにお伝えした通り、若年層向けのメディアやブランドから、氷室さんを起用できないかという問い合わせが何件か来ています」
「……はい」
広告の反響を受けて問い合わせが来ていることは聞いていたが、実際に並んだ案件名を見ると、急に現実味が増した。
「もちろん、すぐに全部受けてくださいという話ではありません」
担当者はそう前置きしてから、別の資料を机の上へ置いた。
「ただ、氷室さん自身が今後もモデルの仕事に興味があるのであれば、ポージングやウォーキングなど、基礎から少し勉強してみてもいいんじゃないかと思っています」
「基礎、レッスン……」
「今回の撮影では、カメラマンからも表情の強さを評価されています。でも、まだ一度撮影を経験しただけ。ポーズの作り方や身体の見せ方も、これから覚えていく必要があります」
私は、机の上に置かれたレッスン案内へ視線を落とした。
一回だけだから。
そう思って踏み出したはずだった。
でも、ここから先は自分で決めなければならない。
この世界を、もう少し先まで見てみたいのかどうかを。
レッスンを受ければ、当然、放課後や休日の時間は削られる。
湊の配信の準備や、機材室で何となく一緒に過ごしていた時間。
……湊と会える時間は、きっと今までより減ってしまう。
(……どうしよう)
迷いが頭をよぎったものの、頭に浮かんだのは、あの日カメラの前で自分の感情を初めて誰かへ届けられた瞬間だった。
そして、その写真を見た知らない誰かが、『楽しそう』『ライブに行きたくなった』。
そう言ってくれたこと。
――胸の奥が、また少しだけ熱くなる。
「……受けてみたいです」
私は顔を上げ、担当者を真っ直ぐに見た。
「ポージングも、ウォーキングも。基礎から、ちゃんと学んでみたいです」
「分かりました」
担当者が柔らかく微笑んだ。
「では、学校生活に無理が出ない範囲で、まずは週一回から始めてみましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
こうして私は、一度きりの撮影からもう一歩だけ先へ。
自分で選んだ、新しい世界へ足を踏み入れることになった。
***
雪乃が本格的にモデルの基礎レッスンに通い始めてから、一週間が経った。
(……会いたいな)
放課後の機材室。アンプの上に座りながら、俺は一人でスマホの黒い画面をぼんやりと見つめ、小さくため息を吐いた。
雪乃は追加の撮影やレッスンで忙しく、ここ数日は一緒に帰ることも、配信の準備を一緒にすることもできていない。
俺自身も、佐々木さんから課された事務所の特別育成レッスンや、デモ音源の制作課題に追われ、お互いにすれ違う日々が続いていた。
「よっ! なんだ影山、雪乃ちゃんがいなくて寂しいのか?」
不意に、背中をバンッと叩かれた。
見ると、ボイトレを終えたらしい翔太が、ニカッと笑いながら缶ジュースを差し出してきた。
「うおっ、びっくりした。……別に寂しくねえよ」
俺は慌ててスマホを隠し、受け取ったジュースのプルタブを開けた。
「嘘つけ。顔にデカデカと『雪乃ちゃん不足で死にそう』って書いてあるぞ。まあ最近、雪乃ちゃんも忙しそうだし、俺も前ほど顔見なくなった気がするわ」
翔太はカラッと笑い、隣のパイプ椅子にドカッと腰を下ろした。
「会いたいなら『会いたい』って、普通にそう言えばいいだろ」
「……お前はいいよな。そういうの、素直に言えて」
俺が少し僻むように言うと、翔太は不思議そうに首を傾げた。
「なんだよお前、直接言えないなら、メッセージでも送ればいいだろ?」
「いや、あいつも慣れないレッスンや撮影で疲れてるだろうし……。そこに『会いたい』とか送ったら、重い彼氏みたいで迷惑だろ」
俺が陰キャ特有のネガティブな思考回路で弁明すると、翔太は目を丸くして、呆れたように笑った。
「お前さ、陰キャって連絡一個でそこまでウジウジ悩めんの? 逆にすげえな」
「うるせえよ」
「お前だってレッスン行ってるし、忙しいのはお互い様だろ。それに、彼女なんだから、会いたいって言われて『重い』も何もねえじゃん」
陽キャの、あまりにもシンプルで真っ直ぐな真理。
何事も深読みして足踏みしてしまう俺にとって、その雑でストレートな言葉は、少しだけ胸のつかえを取ってくれるものだった。
「……まぁ、そうだよな。サンキュ、陽向」
「おう! あんま深く考えんなよ! じゃ俺、もう少し練習してくるわ!」
翔太が嵐のように去っていき、機材室に再び静寂が戻る。
俺はもう一度スマホを開き、雪乃とのトーク画面を開いた。
『最近全然会えてないけど、今度――』
そこまでフリック入力して、指を止める。
(……いや、今度の休日はあいつ、ウォーキングのレッスンが入ってたはずだ)
文字をバックスペースで消す。
『会いたい』
たった四文字。
翔太の言う通り、それを送ればいいだけなのに。
(……ダメだ。あいつが気を遣って、無理して時間を作ろうとするかもしれない)
雪乃の真面目で不器用な性格を誰よりも知っているからこそ、自分のワガママで彼女の新しい挑戦の邪魔をしたくなかった。
俺は再び文字を消し、当たり障りのない言葉を打ち込んだ。
『撮影とレッスン続いてるみたいだけど、無理すんなよ』
送信ボタンを押す。
既読はすぐにはつかない。俺は小さく息を吐き、スマホをポケットにしまった。
***
都内のスタジオ。
ウォーキングの基礎レッスンを終え、疲れ切った身体で帰りの電車に揺られながら、私はカバンからスマホを取り出した。
画面には、湊からのメッセージの通知が表示されている。
『撮影とレッスン続いてるみたいだけど、無理すんなよ』
(……湊)
その優しい気遣いの言葉に、張り詰めていた心がじんわりと温かくなる。
湊も、事務所の育成レッスンやデモ制作で忙しいはずなのに、こうして私のことを気にかけてくれている。それが何よりも嬉しかった。
でも……。
本当は、気遣いの言葉よりも。
『寂しい』とか『会いたい』とか、そんな言葉を期待してしまっている自分がいた。
(……バカね、私。湊がそんな器用なこと言えるわけないじゃない)
私はトーク画面を開き、文字を打ち込み始めた。
『湊に会いたい』
そこまで打って、フッと指を止める。
(……でも湊だって、今は新しい環境で必死に頑張ってる。私だけ「会いたい」なんて言ったら、湊のことだから無理して時間を作ろうとするかもしれない)
私は湊のマネージャーであり、自立した恋人なのだ。
昔みたいに自分の感情を押し付けて迷惑をかけるような真似はしたくない。
私は打ちかけた文字をすべて消し、丁寧に言葉を選び直した。
『ありがとう。湊もレッスン頑張ってね』
送信ボタンを押す。
すぐに『既読』がついたが、それ以上の返信はなかった。
私はしばらくトーク画面を見つめてから、スマホを胸元へ抱き寄せた。
湊も、頑張ってる。
私も、頑張らなきゃ。
そう思っているはずなのに、胸の奥に残った小さな寂しさだけは、どうしても消えてくれなかった。
(……会いたいな)
言葉にできなかった小さな本音が、電車の揺れ音に虚しく溶けて消えていった。




