第65話 初めての撮影現場と、動かない表情
週末。 都内にあるハウススタジオ。
ヘアメイクとスタイリストの手によって、私は新作のブレザーとチェックスカートに着替え、ふんわりとしたナチュラルなメイクを施されていた。
「氷室さん、準備できたらカメラの前へどうぞー」
スタッフさんに呼ばれ、私はスタジオの中央――白く張られた背景紙の上に立った。
たくさんの照明機材。レフ板。そして、私を真っ直ぐに見据えるカメラのレンズと、数人の大人たち。
「それじゃあ、まずはテスト撮影から。氷室さん、カメラ見て」
女性カメラマンの声に合わせ、私は背筋を伸ばし、スッとレンズを見つめた。
学校で『氷の女王』として振る舞う時の、凛とした表情。誰にも隙を見せない、完璧に制御された私自身の立ち姿。
――カシャッ。
ストロボが光り、モニターに最初の一枚が表示される。
近くで衣装を整えていたスタッフの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……画面に入ると、強いね」
企画担当者が、小さく呟く。
ただ立ってレンズを見ただけの一枚に、何か目を引くものがあるらしいことは分かった。
「やっぱり、静かな表情はすごく映えるね」
カメラマンはモニターを見ながら頷いた。
「姿勢も視線も強い。何もしなくても、一枚の画として成立する」
褒められたはずなのに、彼女はそこで言葉を切った。
「でも、広告は綺麗な肖像を撮る訳じゃない。この制服を着たら、どんな時間を過ごせるのか。見る人に想像してもらう必要があるの」
私はハッとして、身を固くした。
「今回ほしいのは、放課後に好きなライブへ向かう高校生の顔」
カメラマンは撮影資料の一枚を指した。
「制服を着ていることを忘れるくらい、これから始まる時間を楽しみにしている。そんな高揚感を写したいの」
「高揚感……」
「そう。ポーズを決めるんじゃなくて、今から好きな音楽を聴きに行くつもりで少し動いてみようか」
カシャッ、カシャッ、とテンポ良くシャッターが切られ始める。
私は言われた通りに、高揚感を表現しようと動きをつけてみたのだが。
「氷室さん、顎をほんの少し上げよう」
「はい」
「そう。次は肩の力を抜いて」
言われたとおりに肩を下げると、今度は両手の置き場所が分からなくなった。
「右手だけポケットへ。指先は力を入れすぎないで」
「……こうですか」
「形はいい。でも今度は、ポーズを取ることに意識が全部いってる。目線まで固くなってるよ」
……ダメだ。何もかもが、上手くいかない。
言われた箇所へ意識を向けるたび、身体の別の場所が動かなくなる。
顎、肩、指先、視線。
一つずつなら制御できるはずなのに、すべてを同時に求められた瞬間、身体が私のものではなくなったような錯覚に陥る。
(……どうして?)
学校では、どんな顔をすればいいのか迷ったことなどない。
隙を見せず、背筋を伸ばし、近寄りがたい表情を崩さない。
困ったことがあっても、いつもと同じその形へ戻れば、それで済んでいた。
けれど今、求められているのは、決められた一つの顔ではない。
その場に合わせて、自分の感情を変化させることだった。
「じゃあ、一度ポーズのことは忘れようか」
カメラマンが少し声を柔らかくした。
「放課後、ずっと楽しみにしていた曲がイヤホンから流れてきた。そんな瞬間を想像してみて」
「……はい」
「その時の気持ちを、顔に出してみようか」
カメラマンからの要求に、私の顔の筋肉はピシッと完全にフリーズしてしまった。
(求められているのは、自然な笑顔……)
もちろん笑ったことがないわけではない。
でも、他人の前では、見せる感情を選んできた。
澪の前で気を抜くことはあっても、何も考えずに心を開くことはない。
湊の前だけが例外だった。
湊のギターを聴いた時。
湊が不意に優しい言葉をくれた時。
彼の前なら、止めようとしても勝手に表情が崩れる。
けれど今は、知らない大人たちと、無機質なレンズが私を見ている。
求められた瞬間に、必要な感情だけを取り出して表に出す方法なんて、分からなかった。
「……氷室さん?」
カメラマンがカメラから顔を上げた。
「一度、力を抜こうか。無理に笑おうとしなくていいから」
そう言われても、強張った頬は元へ戻らなかった。
何枚シャッターを切られても、モニターに映し出されるのは、綺麗に着飾った、冷たくて感情のないただの人形のようだった。
「……そろそろ一度、休憩にしようか」
カメラマンの声は、決して怒っているわけではなく、優しかった。
だからこそ、自分の不甲斐なさが余計に胸へ深く刺さった。
「……すみません」
浅くなっていた息を整えながら頭を下げ、私はスタジオの端の椅子へ向かった。
まるで逃げるように歩いている、そんな自覚があった。
カメラマンの女性が、ミネラルウォーターのペットボトルを持って、私の隣にやってくる。
「お疲れ様。……緊張してる?」
「いえ……その、どう笑えばいいのか、わからなくて」
私がペットボトルを受け取りながら俯くと、彼女は私の横顔を静かに見つめた。
「氷室さん、カメラを向けると、必ず同じ顔に戻るよね」
「……同じ顔?」
「顎も、目線も、口元も。失敗しないための位置へ戻ろうとしてるみたい」
彼女は責めるでもなく、確認するように言った。
「カメラに見られるのが怖い?」
「怖いわけでは……」
「じゃあ、どうしてずっと、自分を見せないための顔を選んでるの?」
その質問に、私は答えられなかった。
隙を見せないこと。
誰にも踏み込ませないこと。
それが、自分を守るための、一番正しい方法だと思っていた。
けれど、レンズの前で同じ顔を繰り返す自分を思い出す。
もしかすると私は、カメラを拒んでいたのではない。
カメラの向こうへ、自分を見せることを拒んでいたのかもしれない。
その考えに触れた瞬間、胸の奥がひどく苦しくなった。




