第64話 背中を押す手
放課後の帰り道。
夕日に染まる駅前通りを、私と湊は並んで歩いていた。
改札が見えてきたところで、私は足を止める。
「……湊。話したいことがあるの」
「ん? どうした」
振り返った湊に、私はカバンの内ポケットから名刺を取り出し、そっと手渡した。
「これ……」
「ん? フォトグラファー……ファッション・広告? なんだこれ」
「こないだ、事務所のスタジオに行った時。休憩中に、この人から声をかけられたの……『モデルをやってみないか』って」
湊は驚いた様子で、名刺と私の顔を交互に見比べた。
「モデル……。雪乃が?」
「ええ。最初はすぐに断ったわ。私はあんたのマネージャーだからって」
「……」
湊は名刺をジッと見つめたまま、静かに先を促すように黙っている。
私は、キュッと鞄の持ち手を強く握りしめ、澪の後押しを思い出しながら、必死に自分の言葉を紡いだ。
「……でも私、少しだけ、やってみたいと思ってるの。カメラを向けられる自分がどう映るのか、知りたいって思っちゃったの」
湊の顔色を窺う。
湊は名刺から顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見返してきた。
「……それは、俺に許可を取ろうとしてるのか?」
「……」
「俺がいいって言ったら受ける。嫌だって言ったら断る。そういう相談なのかと思って」
責めるような口調ではなく、私の覚悟を試すような問いかけだった。
私は、逃げ出したくなる気持ちをぐっとこらえ、首を横に振った。
「違う。……私、やってみたいと思ってる。そのことを、あんたには一番に知っていてほしかったの 」
「……そっか」
湊は、フッと口角を上げて笑い、名刺を私に返してくれた。
「雪乃がそう思ってるなら、俺に止める理由はないよ」
湊は名刺を私へ返した。
「お前自身を見て、声をかけられたんだろ。やってみたいなら、やってみればいい」
迷いのない言葉だった。
モデルの仕事が正しいかどうかを決めてくれたわけではない。
ただ、私が自分で選ぼうとしていることを、そのまま受け止めてくれた。
その言葉に、私の胸の奥に詰まっていたつかえが、スッと溶けて消えていくのを感じた。
「でもさ」
湊は少しだけ眉を下げ、照れくさそうに後頭部を掻いた。
「正直、モデルの世界とか俺には全然分からないから、少し心配ではあるかな」
「心配って……私が表に出て、変に目立つのが嫌ってこと?」
「いや、モデルの仕事が嫌ってことじゃない」
湊は少しだけ言葉を探した。
「ただ、お前、分からないことや嫌なことがあっても、平気な顔して我慢するだろ」
「そんなこと……」
「ある。しかも後から一人で抱え込む」
即答され、私は言葉に詰まった。
「知らない人が多い現場で、困っても何も言えないんじゃないかって。それは少し心配だな」
「……私のこと、よく見てるのね」
「まぁ、彼氏だからな」
――ズッキューン。
私の心臓が、ものすごい音を立てて跳ねた。
(アァァァァァァッ!! なにそれ! 私の性格ちゃんと理解してくれた上での、完璧な彼氏ムーブ!! 尊い! 好きすぎ!!)
限界オタクの私が、脳内でスタンディングオベーションをしながら奇声を上げている。
私は顔が真っ赤に茹で上がるのを必死に堪え、ツンと顔を背けた。
「だ、大丈夫よ。今回は単発の仕事だし、あんたのサポートに影響しない範囲でやるから」
口にすると、少しだけ安心できた。
一回きり。
今までの生活は何も変わらない。
そう考えれば、未知の場所へ踏み出す怖さも、どうにか抑えられる気がした。
「単発だから、やってみたいのか?」
湊の問いに、私はすぐには答えられなかった。
「……今は、一回先のことまでしか考えられないの」
本格的に続けたいかなんて、まだ分からない。
ただ、目の前にある一度だけの機会を、なかったことにはしたくなかった。
「そっか。なら、まずはその一回だな。まあ、無理だけはするなよ」
「ええ。約束するわ」
湊は小さく頷き、止まっていた足を再び駅へ向けた。
私も、その隣へ並ぶ。
鞄の中の名刺は、昨日までよりほんの少しだけ軽く感じられた。
家へ帰ったら、まず母に話す。
そして、自分の手でカメラマンへ連絡する。
そこまでは、もう決めていた。
***
数日後。
私は母親を伴って、指定された都内のモデル事務所の会議室を訪れていた。
名刺をくれた女性カメラマンだけでなく、ブランドの企画担当者も同席する、保護者を交えた正式な面談だった。
「今回の企画では、楽器を演奏する人だけでなく、ライブへ通う人や配信活動を裏側で支えている人など、いろいろな形で音楽を愛する高校生を起用します」
企画担当者は、資料に並んだ候補写真を示した。
「氷室さんを推薦した理由は、特定のアーティストとの関係ではありません。カメラマンから聞いた、あなた自身の雰囲気と表情です」
隣の女性カメラマンが頷く。
「静かに立っている時のクールさと、音楽を聴いている時の表情。その落差が、今回の広告に合うと思ったの」
湊の名前ではなく、私自身を見て選ばれた。
そう理解した瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「ぜひ、今回のキービジュアルのモデルとして、起用させていただけないでしょうか」
とんとん拍子に進む話に、母も「本人がやりたいなら」と了承してくれ、未成年の労働に関する書類の手続きや、学校への申請など、大人たちの間で正式な調整がスムーズに行われた。
(……本当に、私がモデルをやるんだ)
帰りの電車で、私は窓に映る自分を見つめた。
スマートフォンには、撮影日時とスタジオの住所が記されたメールが届いている。
今週末。
メイクも、衣装も、カメラの前に立つことも、何もかも初めてだ。
いつものように隣に湊がいて、澪や翔太くんを頼りにできる訳ではない。
カメラの前に立つのは、私一人。
窓の向こうの自分と目が合い、私は無意識に背筋を伸ばした。
その顔は、期待しているようにも、不安に怯えているようにも見えた。




