第63話 捨てられない名刺と、親友の眼力
数学の授業中。
黒板の内容をノートに書き写していた私――氷室雪乃は、ふと自分のシャープペンシルの動きが止まっていることに気づいた。
(……えっ)
ノートの右下の余白。そこには、数式とは全く関係のない、ある人物の名字が無意識のうちに書き込まれていた。
先日、事務所のスタジオで私に声をかけてきた、女性カメラマンの名前。
私はハッとして、消しゴムでその文字をゴシゴシと擦り消した。紙の表面が少しだけ毛羽立ち、黒く擦れた跡だけが残る。
(……ったく、何やってるのよ、私)
小さくため息を吐き、机の下の鞄に目をやった。
その内ポケットには、あの日渡された一枚の名刺が入っている。
今朝、家を出る前。
『やっぱり、こんなものは必要ない』と、引き出しの奥から引っ張り出し、ゴミ箱へ捨てるつもりだった。
しかし、いざ捨てようとすると、どうしても指先が動かなかった。
結局、ゴミ箱の上で数秒間フリーズした後、私はその名刺を鞄の内ポケットへ押し込んで、学校へ来てしまったのだ。
(ただの紙切れ一枚、捨てられないなんて、バカみたい)
チャイムが鳴り、昼休みになった。
普段なら、弁当を手に真っ先に湊の教室へ向かう時間。
けれど今日は、椅子から立ち上がれなかった。
今、湊の顔を見たら。
自分があの名刺を捨てられなかったことを、隠し通せる気がしない。
だからといって、まだ何も決めていない気持ちを打ち明ける勇気もなかった。
私は弁当箱へ手を伸ばす代わりに、机の下でスマートフォンを開いた。
検索窓に、名刺に書かれていた事務所名とカメラマンの名前を入力する。
検索ボタンを押そうとした指が震え――。
「……ねえ。あんた、今日ずっと変よ」
「ひゃっ!?」
不意に横から声をかけられ、私はビクッと肩を跳ねさせ、反射的にスマホの画面を机に伏せた。
見上げると、親友の結城澪が、ジト目で私を見下ろしていた。
「な、なによ澪。急に脅かさないでよ」
「脅かしてないわよ。あんたが一人で挙動不審なだけ」
澪は呆れたように息を吐き、私の前の席の椅子を引いて座った。
「今日のあんた、影山くんのところに行こうともしないし。さっき私が『昼ご飯どうする?』って聞いた時も、生返事しかしなかったじゃない」
「そ、それは……」
「それに」
澪は、私が伏せたスマホを指差した。
「あんた、今日の朝からずっと、スマホを見たり伏せたりしてるよね。……しかも、影山くんの写真じゃない画面を」
「っ!」
「……何か隠してるでしょ?」
澪の観察眼は、恐ろしいほどに鋭かった。
誤魔化しきれないと悟った私は、観念してため息をつき、鞄の内ポケットから一枚の名刺を取り出して、澪の前に差し出した。
「……これ」
澪は名刺を受け取り、印字された名前と肩書を目で追った。
「フォトグラファー……。これ、どうしたの?」
「こないだ事務所のスタジオへ行った時、この人に声をかけられたの。モデルをやってみないかって」
澪の目が、わずかに見開かれた。
「へえ……。まあ、あんたのルックスなら、そういう声がかかってもおかしくはないわね。それで?」
「もちろん、その場で断ったわよ」
私は腕を組み、『氷の女王』の仮面を被って、ツンと顔を背けた。
「私は湊の専属マネージャーだもの。私が表に出る必要なんてないし、そんなことに興味ないって、ハッキリ言ったわ」
「……ふーん」
澪は、名刺を指で弾きながら、私を見透かすように冷ややかな目で見つめた。
「それなら、なんでわざわざ学校まで名刺なんか持って来てんのよ」
「それは……捨てようと思って」
「捨てるために、鞄へ大事にしまったの?」
何も言い返せなかった。
澪は名刺を机へ置き、呆れたように息を吐く。
「私は、あんたにモデルをやれって勧めるつもりはないわよ」
「うん……」
「でも、影山くんのマネージャーだから、って理由だけで考えるのをやめるのは違うと思うの」
澪は、逃げ道を塞ぐように私の目を見た。
「まず影山くんのことは一回置いて。声をかけられた時、あんた自身はどう思ったの?」
「私には、湊のマネージャーが一番合ってるの。それに……」
「それが大切なのは知ってる」
澪は、名刺を机の上に置き、私を真っ直ぐに見据えた。
「だから、彼のこととは別問題として、あんた自身がどう感じたか、ちゃんと考えなさい」
「……」
「『推しの隣にいる私』じゃなくて――『氷室雪乃』自身、どうしたいのよ」
澪の真っ直ぐな問いかけに、私は強く握りしめていた拳を、ゆっくりと解いた。
湊を理由にして、自分の心に蓋をするのは簡単だ……でも。
「……興味がないとは、言い切れない」
声にしてしまうと、もう引っ込めることはできなかった。
心のどこかで感じていた、自分に対する期待。
そんな気持ちを、自分のものとして認めたのは初めてだった。
「……あの人に声をかけられた時、少しだけ想像したの」
「何を?」
「カメラの前に立っている自分を」
口にしただけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
「湊の恋人でも、マネージャーでもなく、私一人が写真に映ったら……どんなふうに見えるんだろうって」
それを認めた途端、胸の奥に小さな後ろめたさが生まれた。
湊とは関係のないことを、自分のためだけにやってみたい。
なぜそれが悪いことのように感じるのか、自分でもまだ分からなかった。
それでも、声に出した瞬間、胸の奥にあった小さな火種が、ふっと熱を帯びたのがわかった。
「……私、少しだけ、やってみたいと思ってるのかもしれない」
澪はしばらく私の顔を見ていた。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。
「じゃあ、まずはその気持ちをなかったことにしないことね」
「え?」
「実際にどうするのかまでは、まだ決めなくていいと思う。でも、興味がある自分まで否定するのはやめなさい」
澪は机の名刺を、指先でこちらへ押し戻した。
「まず、影山くんには自分の言葉で話しなさい。許可をもらうためじゃなくて、あんたがどう思っているのかを伝えるために」
私は、机の上の名刺をそっと手に取り、今度は大切に鞄の中へしまった。
「……湊に、話してみる」
「ええ」
「やっていいか聞くんじゃなく、私が少し興味を持ってるって、ちゃんと伝える」
そう口にしても、怖さは消えなかった。
それでも、さっきより少しだけ、この名刺を真っ直ぐ見られるようになっていた。




