第62話 捨てられない名刺
事務所でのセッションから数日。
放課後の旧校舎には、俺たち四人が集まっていた。
「あーっ、腹式呼吸キツい! ボイトレの先生、マジで鬼だわ!」
パイプ椅子にひっくり返りながら、翔太が情けない声を上げる。
「泣き言いわない。ほら、さっきの録音。出だしのピッチが微妙に甘いから、もう一回」
澪がタブレットを操作し、容赦なくダメ出しをして伴奏の音源を再生する。
翔太は「うぃっす」と渋々立ち上がり、再び発声の基礎練習に戻っていった。
そんないつもの騒がしいやり取りをBGMにしながら、俺は事務所の講師から出されたギターのスケール練習と特殊なカッティングをアンプを通さずに黙々と繰り返していた。
事務所の講師から求められた精度は、これまでとはまるで違った。
自分たちだけで音を合わせていた時なら流していた小さなリズムの揺れも、容赦なく指摘される。
「ねえ湊。こないだのカバー配信だけど、この項目は『自分たちで演奏した音源』で合ってるわよね?」
ふと、隣から声がした。
雪乃が事務所から渡された楽曲利用のチェックシートをこちらへ向ける。
「市販の音源は使ってないから、それで合ってる」
「歌詞も変えていない。動画の公開先は、事務所が確認済みのサービス……と」
雪乃は一つずつ声に出しながら、確認欄へ印をつけていく。
「今まで何となく配信してたけど、確認することって多いのね」
「俺も知らなかった」
「威張るところじゃないわよ。今後は公開前に私も確認するから」
雪乃はそう言って、再び資料に向き直った。
以前のように「タコ指エロい」と俺の手元ばかりを見て悦に浸っているわけではない。
俺が俺の課題に向き合っているように、彼女もまた『サポート役』として自分自身の課題に真剣に向き合っているのだ。
四人がそれぞれのやるべきことに向き合いながらも、一つの空間で時間を共有している。それは、俺たちが次のステージへ進むための、心地よい充実感に満ちた時間だった。
やがて、窓の外がオレンジ色に染まり、下校を促すチャイムが鳴った。
「……さて。キリがいいし、私、今日は先に帰るわ」
雪乃がバインダーを閉じ、カバンにしまいながら立ち上がった。
「えっ、もう帰るのか?」
「ええ。この資料の続き、家で集中して確認したいから。……あんたもレッスンの課題、もう少し残ってやっていくんでしょ」
「あ、ああ……」
俺は少し驚いて雪乃を見た。
以前の雪乃なら、自分の予定を後回しにしてでも、俺が帰るまで残ったかもしれない。
けれど今日は、俺の練習と自分の勉強を、当たり前のように分けて考えている。
「少し遅いけど一人で帰るの平気か?」
俺が尋ねると、雪乃はクスッと小さく笑った。
「子供扱いしないで。私は、私の勉強をするだけよ。あんたも自分の課題、しっかり頑張りなさい」
そう言って、雪乃は俺に背を向け、軽やかな足取りで教室を出て行った。
その後ろ姿を見送りながら、俺は自然と口角が上がるのを感じた。
俺の隣にいない時間も、雪乃は雪乃のやるべきことへ進んでいく。
それが少しだけ寂しくて、同じくらい嬉しかった。
「ああ。雪乃も、頑張れよ」
もう廊下へ消えた背中へ呟き、俺は再びギターのネックを握り直した。
***
その日の夜。
持ち帰った資料の整理を終えた私は、鞄の内ポケットに手を入れた。
指先に触れた、一枚の小さな紙切れ。
何度か捨てようと思った。
けれど、そのたびに指が止まり、結局は鞄の内ポケットへ戻していた。
今日もまた、指先に触れたそれを、私はゆっくりと引き抜く。
(……私、なんでこんなもの、まだ持ってるのかしら)
それは、先日、事務所のスタジオへ行った時に渡された『名刺』だった。
佐々木さんから「彼女はうちの宣材撮影をよく担当してくれているんだ」と紹介された、女性カメラマンのもの。
『――あなた、モデルやってみない?』
休憩中、自販機の前でその女性カメラマンから不意にかけられた言葉を、私は思い返していた。
『さっき、ガラス越しに演奏を見ていたでしょう』
『……はい』
『最初はすごく静かな表情だったのに、彼と目が合った瞬間、一気に顔が変わった』
女性は、自分の目元を指で示すようにして笑った。
『表情が変わる、その一瞬に物語があるの。カメラを向けたくなる顔だなと思った』
『わ、私がですか?』
『ええ。もし興味があるなら、保護者や学校、それから佐々木さんを通して連絡して。きちんと正式な形で話をしましょう』
そう言って、名刺を手渡された。
私は限界オタクの締まりない顔をプロのカメラマンに見られていたことに羞恥で死にそうになりながらも、即座にキッパリと断った。
『お誘いは光栄ですが。私は湊のサポート役です。自分が表に立つことには興味ありません』
あの時は、本当にそう思っていた。
迷う理由など、一つもないはずだった。
私は湊の専属マネージャーだ。湊の隣で、その才能を支えることが私のすべてであり、私が表舞台に出る必要なんてどこにもない。
本来ならその場ですぐに捨ててしまってもおかしくない名刺だった。
……けれど。
私は、それをゴミ箱へ捨てることを、なぜか躊躇ってしまったのだ。
私はベッドから起き上がり、机の前に座った。
目の前にある小さな鏡には、部屋着姿の自分が映っている。
学校で見せる隙のない表情でも、湊の演奏に限界化している顔でもない。
誰にも見せる必要のない、ただの私の顔だった。
(私は、湊の恋人で、専属マネージャーでもある)
それはこれからも変わらない。私の一番大切な居場所だ。
でも……。
(それとは別に。……氷室雪乃自身は、何をしてみたいんだろう)
そんなことを考えたのは、生まれて初めてのことだった。
湊のため、湊の音楽を支えるため。
ここ最近の私は、何かを選ぶたび、そればかりを基準にしていた。
そんな私に、初めて提示された湊とは関係のない 『私自身』への評価。
「……モデル、か」
口にしてみると、思っていたよりも不思議な響きがした。
私は名刺を、机の引き出しの奥へそっと戻した。
捨てなかった理由は、まだ自分でも分からない。
湊に相談するべきなのか。それとも、何もなかったことにするのか。
答えを出せないまま、私はゆっくりと引き出しを閉めた。
その小さな音だけが、静かな部屋に残った。
(第三部・完)




