第61話 新しい形
熱を帯びた残響が、防音ブースの中にゆっくりと溶けて消えていく。
肩で息をしながら、俺と翔太は自然と視線を交わし、短く頷き合った。
やり切った。技術の粗さはあるかもしれないが、今の俺たちに出せる最高の『音』は、間違いなく叩きつけることができた。
「……はぁっ、はぁっ」
少し離れたマイクスタンドの前で、星乃奏もまた、肩を上下させて息を切らしていた。
いつもなら演奏後も涼しい顔をしている彼女が、今は前髪を汗に濡らし、呆然としたように宙を見つめている。
やがて、彼女はゆっくりとこちらへ向き直った。
「……悔しい」
ぽつりとこぼれたその声には、彼女が今まで見せたことのない種類の感情が乗っていた。
「私がテンポを作って、全員を引っ張るつもりだったのに。……途中から、自分がどこに連れて行かれるのか、全然分からなくなった」
奏の瞳が、俺のギター、澪のベース、そして翔太へと順番に向けられる。
その顔は、思い通りにならなかった悔しさを滲ませていたが――なぜか、今までで一番、楽しそうな表情をしていた。
「でも……楽しかった」
奏は、真っ直ぐに俺たちを見据えた。
「次は私も、あなたたちが予想できない歌を返してみせる。だから……また一緒に、音を合わせて」
奏の声には、悔しさが残っていた。
それでも、もう俺たちの音を自分の基準へ従わせようとはしていない。
次はどんな音を返そうか。
そんなことを考えているように、その目はさっきまでよりもずっと楽しそうに輝いて見えた。
「上等だ」
翔太が、まだ息を切らしながら笑った。
「次は俺がお前の予想を超えてやる」
「あなたにできるかしら」
「言ったな、この天才女!」
二人は睨み合っている。
けれど、そこに以前のような拒絶はなかった。
「作品として残せるかで言うと、まだ課題が多い」
ブースの扉が開き、佐々木さんが入ってきた。
「だが、こちらの予想を超える演奏だったことは確かだ」
その言葉に、翔太が小さく拳を握る。
「正直に言えば、我々が評価していたのは影山くん個人の技術と適応力だった。今のバンド活動が、彼の演奏へこれほど大きな影響を与えているとは考えていなかった」
佐々木さんは、俺たち三人、そしてガラスの向こうでこちらを見つめている雪乃へと視線を向けた。
「実は、今日の演奏が一定の基準を満たした場合に、半年の試行期間を設けられないか。そこまでは、事前に上層部とも話をしてある」
佐々木さんはタブレットを開いた。
「今日の結果であれば、具体的な条件を添えて上へ申請できそうだ。少なくとも、最初の提案どおりに君たちを切り離す必要はないと、私から主張できる」
俺はその言葉に、思わずガッツポーズを取りそうになる。
「まず、影山くんには特別育成枠としてレッスンに参加してもらう。奏とのデモ音源制作は、固定ユニットではなく、まずはコラボ企画として実施する」
「固定じゃないのは不満だけど…また四人で歌えるなら、それでもいいわ」
奏は一度だけ唇を尖らせた後、すぐに翔太たちへ目を向けると、どこか嬉しそうに頷いた。
「そして、現在のバンド活動については継続を認める。ただし、一般公開されるライブや、収益化を伴う配信、外部とのコラボ、『Kanato』名義での発信については、必ず事前に相談してほしい。学校内での練習や非公開の活動までは制限しない」
「……それなら、問題ありません」
俺と翔太が顔を見合わせて頷くと、佐々木さんは最後に、ガラスの向こうにいる雪乃へ視線を向けた。
「そして、氷室さんの件だが。……彼女を公式なマネージャーとするのは、やはり難しい」
その言葉に、ブースの外にいる雪乃の肩がわずかにこわばる。
だが、佐々木さんは柔らかい微笑みを浮かべて続けた。
「その代わり、影山くんの『サポート役』として、一部の打ち合わせへの同席を許可する。加えて、月に一度、私から直接、業界の権利関係や広報の基礎について説明する場を設けよう。配信企画についても、氷室さんに案を作ってもらう。決定権は事務所に置くが、スタッフからフィードバックを返す形なら、実際の活動を通して学べるはずだ 」
「えっ……!」
提示されたその条件に、雪乃が信じられないものを見るように目を丸くした。
ただの『見学』や『雑用』ではない。彼女が本気で俺の隣に立つための、具体的な成長の機会が用意されたのだ。
「この内容で、正式に上へ掛け合ってみようと思うが……どうかな」
「……はい。よろしくお願いします」
俺が深く頭を下げると、翔太と澪も一緒に頭を下げた。
正式に認められたわけではない。
バンド活動には、これまでにはなかった責任が生まれ、半年後には、改めて結果を問われる。
それでも。
何かを捨てなければ前へ進めないと思っていた俺たちに、全員で挑戦できる道が見えた。
今は、それだけで十分だった。
***
――これで、ようやく一件落着。
少なくとも、その時の私――結城澪はそう思っていた。
「……よかったな、雪乃」
ブースから出てきた影山くんが、ホッとしたような、どこか照れくさそうな顔でそう笑いかけた。その瞬間。
「湊ぉぉぉっ!!」
雪乃は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、影山くんの腕に勢いよくしがみついた。
「うおっ、おい雪乃! 人が見てるから!」
「カッコよかった! 今日のギターも宇宙一だった! 私のために交渉してくれてありがとう、大好きぃぃっ!」
「わかった、わかったから泣くな! 服に鼻水つくから!」
限界オタクの業と、彼氏への激甘な愛情が完全にキャパオーバーを起こし、雪乃は影山くんの腕をギュッと抱きしめたまま離れようとしない。
その光景は、もはや私が通う学校では日常と化した『公認バカップルのイチャイチャ空間』そのものだった。
「…………」
だが、その一部始終を見ていた星乃奏が、ふと自分の胸のあたりを片手で押さえていた。
そして、空気が読めないなりに不思議そうな、どこか具合の悪そうな顔で首を傾げる。
「……ねえ」
奏が、隣にいた私に向かって、ぽつりと問いかけてきた。
「なんか、あの二人を見てると、すごく胃のあたりが変なの。ムカムカするというか、胸焼けがするというか……これも音楽の影響?」
「…………」
私は、純粋無垢な天才ボーカルを見下ろし、死んだ魚のような目で、深く、深いため息を吐き出した。個包装の胃薬をスッと一包取り出し、奏の小さな手に静かに握らせる。
「え? 何、これ」
「……音楽の影響なんかじゃない。それはただの、あのバカップルが撒き散らす糖度の副作用よ」
私は、胃薬を握らされてキョトンとしている天才ボーカルの肩を、同情を込めてポンと叩いた。
「ようこそ。……こちら側へ」
「こちら側……? これ、次のセッション前に飲めばいいの?」
「見る前よ」
「ちょっと澪! 予防薬みたいに言わないで!」
背後から飛んできた雪乃の抗議を無視し、私は自分用の胃薬の封を切り、水なしで口の中に放り込んだのだった。




