第60話 正解のないセッション
週末。再び訪れたレコーディングスタジオ。
今日はまず、俺と翔太と澪の三人で演奏し、その後、奏を加えた四人で、もう一曲。
佐々木さんたちが確かめたいのは、俺一人の技術ではない。
俺が守りたいと言った、このバンドに本当に残すだけの価値があるのか。
それを、音で示さなければならなかった。
コントロールルームでは、佐々木さんとエンジニアたちが腕を組んでこちらを見ている。
そしてその横には、俺のサポート役としての適性を見るという名目で同席を許された雪乃が、背筋を伸ばし、いかにも冷静なサポート役を装っている。
ただし、その視線だけは、最初から俺の左手に釘付けだった。
まずは俺たち三人だけで、普段のバンド曲を演奏する。
「よし、一曲目……頼むぞ、お前ら」
俺が声をかけると、翔太と澪が静かに頷いた。
イントロが鳴り、翔太が歌い出す。
今日の翔太は、以前のように俺の音圧に負けまいとして、無駄に声を張り上げていない。
肩の力を抜き、必要なところだけで息を押し出している。
サビへ入っても、声は痩せなかった。
荒さはまだまだ残っている。それでも最後まで歌い切るために、自分の声をコントロールしようとしているのが分かった。
その翔太の細かな変化に、ベースの澪がいち早く反応した。
澪がわずかにテンポの重心を後ろにずらし、翔太がゆったりと呼吸できるための『隙間』を作った。
俺は、澪が作ったその土台に乗り、バッキングのフレーズを少しだけ変えて音に広がりを持たせた。
『リズムはまだ甘い。音の入りも何箇所か揃っていない』
ガラスの向こうから聞こえるエンジニアの冷静な声に、翔太の肩がわずかに強張る。
『ただ、崩れかけた時に、三人とも同じ場所へ戻れる。誰かがミスを隠すんじゃなく、残りの二人が音を変えて拾っている』
短い沈黙のあと、佐々木さんが続けた。
『完成度はまだまだだが、三人で演奏する意味はあるようだな』
それは、高校生のお遊びとしてではなく、磨けば光る『バンドとしての価値』を認められた瞬間だった。
「さて、次は私の番だね」
ブースの扉が開き、星乃奏が入ってきた。
いよいよ、今日のメイン。奏をゲストボーカルに迎えた、男女ツインボーカル曲のセッションだ。
「じゃあいくよ。最初は私がテンポを引っ張るから、 みんなはそれに乗ってきて」
奏の言葉に傲慢さはない。最も精度の高い自分が基準を示すことが、曲の完成度を上げる合理的な最適解だと純粋に信じているのだ。
カウントが鳴り、二曲目が始まる。
奏の最初の一声で、曲の輪郭が一気に定まった。
音程も、入る位置も、声の強弱も迷いがない。
俺たちがどこへ向かえばいいのかを、歌だけで示してくる。
翔太がそれに続くが、奏の圧倒的な存在感に飲まれ、歌が少しだけ走りそうになる。
(……陽向)
俺がフォローの音を入れようとした、その時。
澪のベースが、低く重い一音を刻んだ。
奏にも、走りかけた翔太にも追従しない。
曲の中心へ、杭を打ち込むような音。
次の一音も、同じ場所へ落ちる。
その揺るがないリズムを聞いた瞬間、翔太の呼吸が落ち着きを取り戻す。
そして、翔太は戦い方――いや、歌い方を変えた。
奏の澄んだ高音と声量で張り合うのをやめたのだ。
代わりに、少し低い位置から、荒さの残る声を重ねる。
奏が伸ばした音の下へ潜り込み、その声を支えながら、最後の一節だけを奪うように前へ出た。
同じ高さで競うのではない。
二人の声質の違いが、初めて一つの曲の中で噛み合った。
(……っ!)
その瞬間、奏の目がわずかに見開かれた。
次のフレーズへ入る直前、ほんの一瞬だけ翔太を見る。
そして、これまで隙間なく埋めていた歌声に、わずかな余白を残した。
挑発なのか。
それとも、掛け合いを求めているのか。
俺は考えるより先に、その『余白』を目がけて荒々しいギターのフレーズを投げ込んだ。
翔太がそのフレーズを受け取り、熱を帯びた声で奏へ掛け合いを返す。
誰かが基準になり、誰かがそれに従う音楽ではない。
俺が投げ、翔太が返す。
奏がその上をさらい、澪が次の行き先を変える。
四人の音が順番に主導権を受け渡し、予測不能な化学反応を起こしながら曲が転がっていく。
(なんだこれ……っ、すげえ!)
いつもなら、呼吸も抑揚も自分で選び切ってから声を出す奏が、次の音を考えるより先に、身体ごと前へ踏み出した。
少し掠れた、予定にはなかった声。
けれど、その一音が入った瞬間、曲の熱がさらに跳ね上がった。
それが、あまりにも気持ちよくて、俺は演奏しながら思わず笑い声を上げそうになっていた。
ふと、ガラスの向こうを見る。
雪乃が両手で口元を覆い、大きく目を見開いていた。
やがて、俺と目が合う。
その瞬間、張り詰めていた表情が崩れ、満面の笑みへ変わった。
声は聞こえない。
それでも、「最高」と叫んでいることだけは分かった。
(……届いてるぞ、雪乃)
俺は迷わず、最後のフレーズへ踏み込んだ。
翔太が声を重ねる。
奏も予定より長く最後の音を伸ばし、澪のベースがその下を走り抜ける。
誰も打ち合わせどおりには終わらなかった。
それでも、最後の一音だけは、まるで最初から決まっていたように同じ瞬間へと落ち、熱い残響が、ブースの中へ広がっていく。
肩で息をする俺たちの耳に、コントロールルームからの声が届いた。
『……録音データとしては、随分と粗いな。編集で整えるのは骨が折れそうだ』
エンジニアが、苦笑混じりに客観的な事実を告げる。
『ただ、整えすぎたら別の曲になる』
別のスタッフが、モニター画面を見たまま呟いた。
佐々木さんはすぐには何も言わなかった。
腕を組んだまま、波形の止まった画面と、ブースの中にいる俺たちを交互に見ている。
その表情は、演奏前とは明らかに変わっていた。
隣では、奏が肩で息をしながら、信じられないものを見るように翔太と澪を見つめていた。




