第57話 提示された条件では受けられない
会議室の張り詰めた空気の中。
翔太は、離れることになっても俺に追いつくと言った。
雪乃は、どんな答えでも逃げずに聞くと言った。
二人がそれぞれの不安や悔しさを抱えたまま、それでも俺の意思を尊重しようとしてくれた。
ならば、俺が言うべきことは……。
俺はゆっくりと立ち上がり、正面に座る佐々木さんと、星乃奏の目を真っ直ぐに見据えた。
「プロのスタジオは、本当にすごかったです」
俺の口から出た予想外に落ち着いた声に、佐々木さんが微かに目を細めた。
「機材も、スタッフの技術も、そして何より星乃さんの歌も。あの環境でギターを弾かせてもらって、自分が今まで知らなかったような音を出せました」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
佐々木さんは小さく頷き、俺の次の言葉を待った。
「でも。提示された条件のままでは、この話は受けられません」
俺は、ハッキリとした声で、その言葉を会議室に響かせた。
ピシリ、と。
室内の空気が凍りつき、完全に止まった。
隣で息を呑む翔太と、驚きで目を見開く雪乃の気配を感じる。
「……理由を聞かせてもらえるかな」
佐々木さんは一瞬だけ目を細めたが、すぐに冷静な表情へ戻った。
「レッスンの内容や活動期間、待遇面に不安があるなら、調整できる部分もある。どの条件が問題なのか、率直に話してほしい 」
「待遇への不満じゃありません」
俺は身体の横で両手を強く握り、一度深く息を吐いた。
まずは、自分の中にある偽らざる本音を、包み隠さず口にする。
「……正直に言うと、知らない大人との打ち合わせとか、カメラの前で愛想よくコメントするとか。そういう生活を想像しただけで、胃に穴が開きそうです 」
「……」
佐々木さんが、怪訝そうに眉をひそめた。
「俺、極度のコミュ障なんで」
「……はい?」
佐々木さんが、初めて間の抜けた声を出した。
「教室の隅や機材係として裏方で生きてきた陰キャに、華やかなプロ活動は刺激が強すぎます」
あまりにも情けなく、あまりにもド直球な本音。
『音楽性の違い』や『将来のビジョン』といった高尚な理由が返ってくると思っていた佐々木さんは、完全に肩透かしを食らい、唖然として言葉を失っている。
隣では、奏が不思議そうに首を傾げている。
「『コミュショウ』って、何? 新しいエフェクター?」
「違う。人間関係にかかる強烈なノイズみたいなものだ」
「じゃあ、ノイズゲートを使えばいいの?」
「人間には挿せないんだよ」
(ブッ……!)
俺の横から、必死に吹き出すのを堪えるような音が聞こえた。
見ると、翔太が顔を真っ赤にして口元を両手で押さえ、肩をプルプルと震わせている。
その隣では、澪が「このシリアスな空気で何言ってんのよこいつ……」と呆れ果てたように、右手で自分の額を深く押さえていた。
「この空気で、最初に言うのがそれなの……」
雪乃も呆気に取られたように俺を見上げていた。
けれど、さっきまで白くなるほど握られていた指先から、ほんの少しだけ力が抜けている。
重苦しかった空気が、一瞬だけ緩んだ。
「……コホン」
数秒の沈黙の後、佐々木さんがわざとらしく咳払いをして、プロのマネージャーとしての冷静さを取り戻した。
「なるほど、言いたいことはわかった。……だが影山くん、その部分に関しては、事務所側でいくらでも支援できる問題だ」
「支援、ですか」
「ああ。メディアへの露出や対人関係については、事前の研修や、我々スタッフが間に立って補助することで十分に対応できる。君が過度にストレスを感じない環境を作るのも、我々の仕事だからね」
佐々木さんは、わずかに表情を緩めた。
「人前に出るのが得意でないアーティストは、君だけではないからね」
「……そうですね。ありがとうございます」
俺は握っていた手を開き、もう一度佐々木さんを見た。
「佐々木さんの言う通りです。……もし問題がそれだけなら、俺も挑戦します」
「では――」
「怖いから断るわけじゃありません 」
俺は、キッパリと断言した。
「環境の変化や、コミュニケーションの不安から逃げるために断るんじゃない。……俺が受け入れられないのは、全く別の条件です」
俺は、隣の翔太と澪、そして雪乃へ順番に視線を向けた。
俺がどんな答えを出しても受け入れると、こいつらは言った。
だからこそ、俺も自分が本当に望んでいることを、曖昧にするつもりはなかった。
「俺は、今の仲間との活動を切り離すという条件は、受け入れられません 」
佐々木さんの目が、わずかに細くなる。
プロへの道を諦めたいわけじゃない。
奏との演奏を否定したいわけでもない。
ただ、自分が大切にしてきた音楽を切り捨てなければ進めないという条件を、そのまま受け入れるつもりはなかった。
「まず、バンド活動について、俺の考えを聞いてください」
ここからが、本当の交渉だった。




