第55話 言えない本音
翌日の昼休み。
俺は雪乃に呼び出され、人気の少ない旧校舎の裏庭へと来ていた。
話題は当然、佐々木さんから提示された『特待育成プロジェクト』の件だろう。
秋の冷たい風が吹き抜ける中、壁を背にして立つ雪乃は、いつものように腕を組み、完璧な『氷の女王』の顔を作っていた。
「……湊。昨日の話だけど」
雪乃は、俺の目を真っ直ぐに見据えて口を開いた。
「私、あの話、受けてもいいと思う」
「……」
「湊のギターは、高校のバンドやネット配信だけで終わるようなものじゃないわ。奏さんとのセッションを聴いて、私にも分かった」
雪乃は一度も目を逸らさず、静かに言葉を続ける。
「湊がプロへ行きたいと思うなら、私は止めない」
以前のように、自分は邪魔だから消えるとは言わなかった。
俺の意思を聞かず、勝手に答えを決めてもいない。
……それでも。
感情の一部が欠落したような雪乃の声を聞いていると、胸のどこかに小さな引っかかりが残った。
「……陽向のことは、どうするんだ」
「翔太くんだって、湊の才能を邪魔したいとは思わないはずよ」
「邪魔って」
思わず眉をひそめる。
「あいつは、俺の隣を譲らないって言ったばかりだぞ」
「でも、プロになる機会を潰してまで自分を選べとは言わないでしょう?」
「それを決めるのは、翔太だろ」
俺の言葉に、雪乃がわずかに口をつぐんだ。
雪乃は俺の意思を尊重しようとしている。
けれど、そのために自分や翔太を、最初から切り捨てる側へ置こうとしているように見えた。
「じゃあ……雪乃は?」
俺は、一番聞きたかった、そして一番触れなければならない確信を突いた。
「事務所は、お前に公式なマネジメントを任せられないって言った。レッスンや制作現場にも、今までみたいには入れなくなる 」
俺は雪乃から目を逸らさなかった。
「それでも、本当にいいのか」
「……ええ」
雪乃は、少しだけ視線をそらし、淡々と答えた。
「私がマネージャーを外れることも……必要なら、受け入れるわ」
(……それが、全部じゃないだろ)
雪乃は嘘をついているわけではない。
俺が本当に望むなら、こいつは泣きながらでも受け入れるつもりなのだろう。
だからこそ、腹が立った。
言葉とは裏腹に、腕を組んでいる彼女の両手――その指先が白くなるほど制服の袖を強く握りしめ、小刻みに震えていた。
「……雪乃はどうしてほしい?」
「えっ?」
「俺の才能とか、プロの環境とか、そういう話はいったん抜きにして」
俺は一歩だけ、雪乃との距離を詰めた。
「お前自身は、俺にどうしてほしいんだよ」
「私は……」
雪乃の唇が、わずかに開く。
何かを言おうとして、けれど声になる直前で飲み込んだ。
視線が揺れ、組んでいた腕にさらに力がこもる。
言葉にできない何かを抱えていることだけは、俺にもはっきり分かった。
「私は、ただ……湊の幸せを、一番に考えてるから……」
「それじゃ分からない」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
雪乃が怯えたように目を見開く。
「っ……」
俺は、無意識のうちに声を荒らげていた。
静かな、けれど明確な怒りが腹の底から湧き上がってくる。
「俺の人生だし、俺の音楽だ。俺に選ばせてくれようとしてるのは分かる。……でも、雪乃が本当はどう思ってるかまで隠すなよ」
「隠してなんて……」
「隠してなきゃ、そんな顔しないだろう?」
俺が指摘すると、雪乃は慌てて表情を取り繕った。
「俺は、お前が我慢して作った『正解』を選びたいわけじゃないんだよ」
「湊……」
「お前が俺の才能を評価してくれてるのは分かる。プロの環境へ行ってほしいと思ってるのも、本心なんだろう」
雪乃が、わずかに顔を上げる。
「でも、それだけじゃないはずだ」
「……」
「行ってほしい気持ちも、行ってほしくない気持ちもあるなら、両方言ってくれよ」
俺は雪乃を責めたいわけではなかった。
ただ、都合の悪い感情だけを切り捨てて、きれいな答えを差し出すようなことはしないでほしかった。
雪乃は唇を震わせたまま、何も答えなかった。
やがて、俺から逃れるように一歩後ろへ下がる。
「……ごめんなさい」
「雪乃」
「今は、言えない」
消え入りそうな声だった。
「言ったら、湊の未来を縛ってしまいそうで……怖いの」
そこまで告げると、雪乃は背を向けた。
「待てよ」
「ごめんなさい。もう少しだけ、考えさせて」
呼び止める間もなく、雪乃は旧校舎の陰へ走り去っていった。
一歩、追いかけようとするが、結局は足を止めた。
今の雪乃を捕まえて、「行かない」と言えば簡単だ。
それで雪乃は安心するだろう。
でも、それだと俺も雪乃と同じことをしてしまう。
相手の本音を聞かないまま、自分が正しいと思う答えを押しつけることになる。
「……分かった。逃げないで、あとでちゃんと話せよ」
もう届かない背中へ、そう呟いた。
プロの世界に全く興味がないといえば嘘になる。
奏と組めば、自分のギターが今まで知らなかった場所へ届くかもしれない。
その可能性を、最初から捨てたいわけではない。
けれど。
翔太を切り、雪乃を外す。
誰かが黙って身を引くことを前提にした条件を、そのまま受け入れるつもりもなかった。
(俺が欲しい未来は、それじゃない)
プロになるか、今の仲間を選ぶか。
最初から二つに一つだと決めつける必要なんてない。
事務所が用意した答えでも、雪乃が我慢して作った答えでもなく、俺自身が納得できる道を探す。
(俺の答えは、俺が決める)
そのために、まずは全員と話さなければならない。
雪乃と、翔太と澪と。
そして、奏や佐々木さんとも。
俺はそんな静かな決意を胸に、教室へ向かってゆっくり歩き出した。




