第54話 限界オタクの脳内大戦
喫茶店から逃げるように帰宅し、自分の部屋のドアを閉めた途端、緊張の糸が切れた私――氷室雪乃は、ベッドに転がっていたペンギンの抱き枕に顔を埋めた。
(……どうしよう。どうしよう!)
胸の奥で、不安と焦燥感がぐちゃぐちゃに渦を巻き、佐々木さんの言葉が、何度も脳内でリフレインしていた。
『公式なマネージャーとして判断を下したり、すべてのレッスンや制作現場へ自由に立ち入ったりすることは認められません』。
恋人として離れろと言われたわけではない。
頭では分かっている。
それでも私には、湊がプロの道へ進めば、これまで当たり前だった彼の隣の席を失ってしまう――そう宣告されたように聞こえていた。
考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
そして、現実の私が抱き枕へ顔を埋めたまま動けなくなった、その瞬間。
私の脳内では、最高レベルの非常事態を告げるサイレンが鳴り響いていた。
――緊急脳内会議、発令。
『議長! 由々しき事態です!』
脳内雪乃A(インテリ眼鏡着用)が、ホワイトボードを激しく叩いて叫ぶ。
『感情と進路問題を混同してはいけません。私たちが恋人だからといって、湊のプロ活動に公式な権限を持てる訳ではないのはある意味当然です!』
そこへ、脳内雪乃C(ヤンデレ・瞳のハイライト消失)が、巨大な火炎放射器を担いで乱入してきた。
『嫌ぁぁぁぁぁっ!! 私が入れないスタジオで、湊と泥棒猫が二人きりになるなんて無理ぃぃぃ!』
『だからといって、湊の可能性を閉ざす権利は私たちにありません。プロの設備で最高の音源が残るなら、最推しのファンとしては歓迎すべきでしょう』
『歓迎できるわけないでしょぉぉぉ!』
Cちゃんの火炎放射器から、嫉妬の炎が天井まで噴き上がった。
『ひぃぃっ! Cちゃん落ち着いて! 火事になっちゃうから!』
脳内雪乃B(限界オタク・両手にペンライト)が、消火器を抱えながら割って入る。
『で、でもAちゃんの言うことも一理あるのよ! プロのエンジニアが録音した湊の高音質ASMRはめちゃくちゃ聴きたい! でも、私が一番近くで生音を浴びられないのは致死量超えてるのぉぉっ!』
『静粛に!』
脳内雪乃Aが眼鏡をクイッと押し上げる。
『私たちの独占欲のせいで、湊の輝かしい未来の「足枷」になるなんて、オタクの恥――』
「――ストップ!!」
その瞬間、脳内会議室の扉が勢いよく開いた。
現れたのは、新たな脳内雪乃ではなく――私自身だった。
私は会議机へ両手を叩きつけ、三人を睨みつける。
「その結論だけは、絶対にダメ」
足枷になるくらいなら、身を引く。
湊の邪魔をしないために、自分からマネージャーを辞める。
それは少し前、アンチに叩かれた私が出した答えだった。
そのせいで湊は悩み、傷ついた。
それでも彼は、一万人記念配信で世界中へ宣言してくれたのだ。
私がいなければ、自分の音楽は完成しないと。
(また私が勝手に「身を引く」なんて決めたら……また湊を傷つけることになる)
過去の過ちを、ここで繰り返すわけにはいかない。
私は、湊を最推しするオタクである前に『恋人』なのだから。
脳内雪乃たちが、私の言葉にハッとして静まり返る。
現実の私は、ペンギンの抱き枕を強く抱き締め、部屋の天井を見上げた。
(……奏と湊の音は、確かに凄かった。湊の才能が、もっと大きな場所で評価されるべきなのも事実よ)
でも、その選択をするのは、私や事務所の大人じゃない。
湊自身だ。
湊が、誰と音楽をしたいのか。これから先、どんなふうにギターを弾いていきたいのか。
それを決めるのは、湊の自由なのだ。
(私は、湊から離れたくない。……でも、私の都合で、湊の可能性を無理やり縛りつけるようなこともしたくない)
――だから。
私が今、彼女として、専属マネージャーとしてすべきことは一つだけだ。
(私も、ちゃんと本音を伝えなきゃ)
湊がもしプロの道を選んで、私が入れない場所で演奏することになっても、 私は湊の恋人として誰よりも一番に湊の音を愛し続ける自信がある。
湊がどこで、誰と演奏しても、最後には私の隣へ戻ってきてくれる。
そう信じたい。
いいえ――信じると、私は決めた。
……もちろん、ヤキモチは死ぬほど焼くけれど。
(明日、ちゃんと湊に話そう)
プロの話をどう思っているのか。
私はどうしたいのか。
隠さず、勝手に結論を出さず、湊と二人で考える。
それが恋人として正しいことなのだと、頭では分かっている。
けれど……。
(……「行ってほしくない」って、言えるのかな )
その一言を口にした途端、湊の可能性を縛る、身勝手な恋人になってしまう気がした。
反対に「行ってもいい」と言えば、本当に湊が私の知らない場所へ進んでしまうかもしれない。
どちらを選んでも怖かった。
私は両手で自分の頬を挟み、ぱちん、と軽く叩いた。
(でも、逃げない。今度は、絶対に)
勝手に消えない。
湊のためという言葉を使って、自分の怖さから逃げない。
そのために明日、湊と話す。
そう決めたはずなのに、胸の震えは止まらなかった。
抱き締めたペンギンの背中へ、もう一度顔を埋める。
「……ちゃんと言えるかな、私」
抱き締めたペンギンは、当然ながら何も答えてくれなかった。




