第53話 事務所からの非情な条件
奏とのスタジオセッションから数日。
俺と雪乃は、学校の近くにある落ち着いた雰囲気の喫茶店にいた。
「本日は、学校帰りにわざわざ時間を割いてくれてありがとう」
向かいの席に座っているのは、奏を担当するマネージャー、佐々木さんだ。
テーブルにはコーヒーが三つ並んでいるが、俺も雪乃も、緊張から一口も手をつけることができずにいた。
佐々木さんは、仕事用のタブレットをテーブルに置き、真っ直ぐな目で俺を見た。
「単刀直入に言おう。影山くん……当事務所の『特待育成プロジェクト』に参加してもらえないだろうか」
「育成、プロジェクト……?」
「そうだ。一度のセッションでいきなり専属契約、などと軽率なことは言えない。継続して同じ水準の演奏ができるのか、学業と活動の両立が可能なのかなど、見極めたい部分は多いからね」
佐々木さんの口調は、あくまで冷静で、大人のそれだった。
「期間は半年間。その間、君にはプロの講師による本格的なレッスンを受けてもらい、奏とユニットを組んで『デモ音源の制作』と『事務所主催ライブへの出演』を行っていただきたい」
「プロのレッスン……」
「そうだ。その結果次第で、奏とのユニットを含め、正式なデビュー企画を検討します。……先日のセッションで、君たちの音、いや才能が噛み合った時の爆発力は、プロのエンジニアたちも太鼓判を押している。挑戦してみる価値は、十二分にあると思うんだが、どうだろうか」
俺は息を呑んだ。
これは遊びなんかじゃない。プロの音楽業界からの明確なオファーだ。
「……すごく光栄な話です。でも俺には、学校のバンドもあるし、Kanatoとしての配信活動も……」
俺が言いよどむと、佐々木さんは少しだけ表情を引き締め、厳しいトーンで言葉を続けた。
「それについてだが。……もしプロジェクトに参加する場合、いくつか守ってもらわなければならない『条件』がある」
「条件、ですか」
「まず、期間中、君の音楽活動はすべて事務所の管理下に置かせてもらう。……ライブ出演、配信、外部とのコラボは事前に承認を取ってからということになる」
「全部、やめろということですか?」
「友人と練習することまで禁止している訳ではない。ただし、現在のバンドで公のライブへ出演することや、予告なしにKanato名義で配信することは、当面控えてもらう可能性は十分あり得る」
俺の隣で、雪乃がビクッと肩を震わせたのがわかった。
「誤解しないでほしい、君の友人関係を否定しているわけではないんだ。ただ、事務所が君と奏を『一つのパッケージ』として売り出す以上、イメージの統一や『Kanato』という名義の権利関係を一元管理する必要があるからね」
佐々木さんは、タブレットの画面をスワイプし、先日俺がバズった配信の切り抜き記事などを表示した。
「それに、最も恐ろしいのはネットの炎上や無茶な活動による怪我や体調不良のリスクだ。事務所が君の才能に投資し、責任を負う以上、活動の管理権限をこちらに預けてもらうのは当然だ。プロフェッショナルとして活動していくためには、どうしても必要な措置なんだ」
大人の理屈。
それは、ただ楽しくギターを弾いていればよかった高校生のアマチュア活動とは、根本的に違う『覚悟』を迫るものだった。
翔太たちとバンドを組むこともできなくなり、自分の好きなタイミングで配信することも許されなくなる。
「それから、もう一つ」
佐々木さんの視線が、俺から、隣で俯いている雪乃へと移った。
「氷室さん。君は彼の専属マネージャーを名乗っていましたね」
「……はい」
雪乃は膝の上でスカートを強く握りしめ、消え入りそうな声で答えた。
「これまで彼の配信や活動を支えてきたことは、本人からも聞いています。先日の炎上へ対応し、彼がもう一度人前で演奏するきっかけを作ったことも含め、君の存在が大きかったことは理解しているつもりです 」
雪乃が、わずかに顔を上げる。
「ただし、彼がプロジェクトへ参加する場合、契約交渉やスケジュール管理、権利処理、対外的な広報判断は、事務所の専門スタッフが担当します」
「……私は、関われないということですか?」
「恋人として彼を支えることまで、我々が口を出すつもりはありません」
佐々木さんは、慎重に言葉を選んでいた。
「ですが、公式なマネージャーとして判断を下したり、すべてのレッスンや制作現場へ自由に立ち入ったりすることは認められません。その線引きは、理解してほしい」
拒絶しているわけではない。
雪乃を否定しているわけでもない。
それでも、今の言葉が雪乃にとってどれほど重いものか、俺には分かった。
雪乃は、ただ恋人として俺の隣にいたわけじゃない。
時には俺の音や配信活動を支え、また時には限界オタクとして、その音を一番近くで浴びることを生き甲斐にしていた。
そんな雪乃から「専属マネージャー」という役割を切り離す。
彼女には、それが自分の居場所を奪われるように聞こえているのかもしれない。
「……あの、佐々木さん」
俺はたまらず口を開いた。
「俺は……雪乃がいないと、ダメなんです。俺のギターは、こいつが隣で――」
「……影山くん。君はまだ高校生だ」
佐々木さんが、俺の言葉をピシャリと遮った。
「もちろん、この場で即答は求めていない。正式な手続きには当然、保護者の方への説明と同意も必要になるからね。……ただ、君が自分の『才能』を世界に届けたいと思うなら、何かを切り離す覚悟も必要になるということは覚えておいて欲しい」
佐々木さんは伝票を手に取り、立ち上がった。
「来週の金曜日に、改めて返事を聞かせてほしい。それまで、よく考えてみてくれ」
佐々木さんが店から出ていき、静寂が落ちる。
「……雪乃」
俺は、隣でうつむいたまま一言も発せずにいる雪乃の肩に手を伸ばした。
だが、雪乃は俺の手を避けるように、ビクッと身体を縮こまらせた。
「雪乃?」
「……ごめんなさい。私、今日はもう、帰るね」
雪乃は俺と目を合わせることもなく、逃げるように立ち上がり、足早に喫茶店を出て行ってしまった。
(……くそっ)
俺は自分の無力さに奥歯を噛み締め、冷え切ったコーヒーのカップの向こうにある、佐々木さんが残した資料を睨みつけた。
突然、降って湧いたように現れたプロへの扉。
奏との演奏で、今まで知らなかった音を出せた。プロの設備にも、そこで広がる可能性にも、心を動かされた。
その事実をなかったことにはできない。
俺がどう選択すべきなのか、答えはまだ出ていない。
だが一つだけ、はっきりしていることがある。
翔太や雪乃のどちらかを切り離すことを、当然の前提にした未来だけは選べない。
俺は資料を強く握りしめ、雪乃が消えた店の入口を見つめ続けた。




